[3]アマモ場の再生(岡山県備前市日生町)
事例3-2:海に種まくひとびと―25年間に7千万粒(後編)
■県水産課(水産試験場)と二人三脚で
「日生は、わたしを水産技師としても人間としても育ててくれた場所です」
岡山県水産課主任の鳥井正也さん(40)は日生のことをこう語る。奉職時すでにアマモの種まきは数年が経過していたが、18年間、漁師と一緒に藻場の回復に一喜一憂してきた仲だ。
「アマモだ!」と直感した日生のつぼ網組は、すぐに県の水産試験場に相談をもちかけた。何しろそれまで雑草扱いで駆除していたアマモだ。逆に生やすとなるとまったくのお手上げ、アマモは海藻ではなく花と種がつくという基本的な知識さえなかったのだ。
鳥井さんは説明する。
「漁業者から相談され、県の水産試験場では1979年からアマモの基礎研究を始めています。当時は研究者も全国で1人か2人。つい最近までそうでしたが、国に予算の話をしても『アマモ?食べられないでしょう』とそっけない時代でした」
数年を費やし、県の水産試験場では水槽でアマモの栽培に成功。本田さんたちは「いっぺん見にこいや」と誘われて水産試験場を訪れ、「指導してくれるなら、種をまいてみるかー」と意気が上がったという。そして85年、わずかに残った藻場からアマモの種を集めてまくという、19軒のつぼ網漁師たちの素朴で地道な努力が始まったのだ。
種のついた花枝は、日生のもっとも沖合の大多府島に残っていた藻場で、6月に採集した。葉や茎を海中で腐らせ、10月に陸に上げて家族総出で実の入った種を選別する。それを小分けにして、11月に船から海に落としてまいていった。すべてつぼ網組の手弁当による作業だ。
種をまく場所は、漁師たちが話し合って3か所を決めた。かつてアマモがよく茂り、つぼ網の好漁場だった場所だ。水産試験場では、種まきに先立ってその3か所の底質調査を行った。しかし、漁師が一番期待をかけていた鹿久居島の米子湾は、かつてとは根本的に異なる硫化水素のヘドロの海底になっていた。「アマモの生育は無理だ」というのが水産試験場の判断だった。
鳥井さんはこう話す。
「今から20年ほど前は海の環境が一番悪いときで、日生も文字通り暗黒の海でした。潜水していても見えないから頭が泥に突っ込むまで気づかない。目を開けていても何も見えないので目を閉じて手探りと勘で水中作業をしたこともあります」
漁師たちはしかし、かつて豊かな藻場だった米子湾をあきらめきれなかった。
「底質が悪かったら何とか改善してほしい」
漁師の訴えに水産試験場は、アマモの種を定着させる方法だけでなく、いかに底質改良をするかという検討課題にも取り組むことになった。
一方、他の2か所では早くも翌年から変化が現れて漁師を喜ばせた。
「何もない海底に、3本5本とアマモの芽が生えているのを皆で見て『やったらやれるがなー、もっとやらんかー』と、そりゃうれしくて元気が出ましたよ」
本田さんは笑顔を見せる。
その後、水産試験場の熱意と漁師の粘りが実り、何と米子湾でも5~6年かけたカキ殻などによる底質改良でアマモが生え始め、97年には7haの藻場が再生していた。
このまま安定するだろうと皆が気を許した矢先の97年7月、台風の強風が藻場を襲った。
本田さんはたまたまその日湾の入り口にいて、一部始終を目の当たりにした。
「養殖いかだ固定の作業に出たら風が強くなってきて、これは船で戻るのはヤバイと米子湾で治まるのを待っていたんや。そうしたら北西の強い風の勢いと干潮にのって、どんどんアマモが抜けて流れ始めた。1本残らず出てしまうのを、始めからしまいまで全部見よった。あの時はさすがに、もうあかんどーと思ったわ」
自然の猛威の前に、絶望した瞬間だった。
■子どもたちに地域に、そして未来につなぐ
米子湾ではそんな後退もあったが、それでもつぼ網組の地道な努力は続けられた。98年から県の事業で「浅海緑化技術の開発」、「アマモ場造成技術指針の策定」を経て、県下全域でアマモ場造成が本格的に進められてきたことが、大きな励みと後押しになっていた。
また、環境保全に向かう時代の流れも、ようやく日生の先進的な取り組みに追いついてきた。下水の高度処理や海底砂利採取の規制などで、海水の透明度が飛躍的に改善されたこともそのひとつだ。米子湾でも数年を経て再び藻場がよみがえり始めた。日生周辺のアマモ場は順調に広がっていき、08年の県の調査では80ha。現在では100haを超えるのではと、鳥井さんはみている。70年前のようやく6分の1だが、これに呼応するように、つぼ網でのエビや魚の漁獲が増え始めている。
しかし本田さんは「赤潮は減ったし水はきれいになった。ただ底質が問題。元気な海には戻っていません。瀬戸内海の漁船漁業はいつ倒れてもおかしくない」と厳しい。しかも「沿岸の海を観察する漁師が消えつつある」ことに、強い危機感を訴える。カキ養殖や底びき網は沿岸を見守る漁業ではないのだという。収入のわりに重労働のつぼ網漁は後継者難で、現在10軒にまで減った。
「浅い海は早く魚が上がる、つまり環境が悪いと魚がいなくなるのが早いんや」と本田さん。だからつぼ網の漁師は、海の環境の変化には誰よりも敏感で、いち早く変化に気づくのだという。「これからは漁師だけではなく、多くの目で沿岸の自然を見守る必要がある」と、本田さんは考える。
明るい話題もある。昨年から、アマモの種まきを漁協の青壮年部が一緒に行うことになったのだ。県水産課を通して日当と傭船代の予算が初めてつき、カキ養殖や底びき網の40、50歳代の漁師、約35人が参加した。これには単なる種まき以上の大きな意味がある。作業を通して沿岸の海の生態系、浅い海の重要性を若手の漁師たちに実感してもらう大事な機会なのだ。水産課も本田さんらつぼ網の漁師たちも、若手の参加に熱い期待を寄せている。
また、子どもたちに海の未来を託す活動も定着しつつある。10年以上前から日生中学校の1年生を対象に漁協で行っているカキ養殖体験だ。中学校専用のカキいかだを作り、稚貝の種つけから収穫まで数回の作業をはさんで学ぶ。
「簡単に口にしていたカキフライが、じつは海の中でこうやって育ち、これだけ大変な作業を経ていることを知ってもらえるだけでも意義がある」と、本田さん。
最近では、カキいかだの廃材の竹を炭にしてバーベキューで再利用する水産バイオマスにも、中学校と一緒に取り組んでいる。
今後の課題は、つぼ網組の25年間の地道な活動を、地域や市民へとバトンタッチしてより大きく発展させていくことだと、県水産課も本田さんら漁協も考えている。25年前、漁師が漁獲向上のために始めたアマモの種まきは、時代とともに漁業という枠をはるかに超えて“環境保全”という社会全体で取り組むべき課題へと変貌してきている。漁業体験、水産バイオマスなどの活動も同じだ。学校だけでなく、地域全体が体験を通して食卓と生活を見直すことから、海への関心とかかわりを広げていくことが求められている。
かつて色見山から見えた海の3色は、海の豊かさと多様性を物語る数知れない色が織りなしていたのではないだろうか。藻場と魚群と陽光きらめく水の色を取り戻すには、その海にかかわるひとびともまた、多彩で多様でなくてはならないのかもしれない。
(取材・執筆:大浦佳代)
この特集ページは平成22年度地球環境基金の助成により作成されました。