[7]アマモが取り結ぶ地域連携(熊本県葦北郡芦北町)
事例7-1:高校生が“海の森づくり”で、山と海をつなぐ(前編)
■芦北町の自然とひとびとの営み
熊本県南部の芦北町は、南北25.4km、東西16.6km、05年に田浦町と合併し人口は2万人を数えます。八代海に注ぐ佐敷川と湯浦川の、水源から河口までの水系を丸ごとすっぽりと包み込み、たとえるなら巾着のような地勢をなしています。
川は標高902mの大関山に源を発して山地に谷を刻み、リアス式海岸が切れ込んだ佐敷湾へと一気に下ります。
芦北の町は16世紀末、加藤清正が築いた佐敷城の城下町として、また参勤交代の要路、薩摩街道の宿場町として栄えました。佐敷湾奥の計石港にはかつて遠見御番所が置かれ、熊本藩お抱えの水夫(かこ)に指定されていました。
現在、芦北漁業協同組合の組合員は110人ほど。帆を使う伝統的な底引き網、刺し網やゴチ網などの漁業が営まれています。
町の森林率は8割にのぼります。明治期、焼き畑などで海岸部の照葉樹林はマツの人工林に姿を変えました。明治中期以降、九州北部の炭鉱では坑道を支える坑木に、マツ材の大きな需要がありました。芦北はその一大産地として隆盛をきわめまたのです。しかし閉山とともに林業は衰退、マツクイムシの被害、1950年代以降植林されたスギ、ヒノキの価格低迷もあいまって、森林の荒廃が進んでいます。
農業の分野では、平坦な土地が少ないことから、海沿いの斜面で柑橘類の栽培が進められてきました。旧田浦町では1949年から全国にさきがけて甘夏の栽培を始め、現在でも甘夏の生産量日本一を誇るほか、デコポンのブランド産地としても知られています。
■八代海の環境と水俣病
八代海は、北は宇土半島、西から南は天草諸島によって有明海との間を仕切られ、南部を長島(鹿児島県)がふさぐ細長い内海です。
北部の球磨川河口には広大な干潟が形成され、かつては一面がアマモ場でした。西部海岸は岩礁や岩場が多く海藻の藻場、反対に東部海岸は砂泥質で海岸線に沿ってアマモが茂っていました。
川から養分と砂が運ばれ、複雑な地形と多様な自然環境に恵まれた八代海は、古来より豊饒の海と呼ばれてきました。
ところが、昭和30年代以降、水俣病の悲劇がこの豊かな海をおそいます。水俣市のチッソ水俣工場が有害なメチル水銀を含んだ廃水を海に流したことで、汚染された魚を食べた多くのひとびとが犠牲になりました。1956年に最初の患者が確認されてから原因が特定されるまで、12年間にわたって排水は流され続け、芦北町でも深刻な被害が出ました。
■自然の力を利用した伝統漁法の漁師が、始めの一歩を
芦北町の佐敷湾周辺でアマモを植え始めたのは、風と潮という自然の力で網を引く、昔ながらの“エコな”底引き網漁の漁師たちです。今から10年前、芦北漁協内に10数人で発足した“打瀬船漁業青年協議会”が、環境活動の一環として着手しました。
「アマモを植えよう」と最初に提案した小崎盛行さん(60)は、たまたま見たテレビ番組がヒントになったといいます。それは岡山県日生町でのアマモの種まきを紹介するものでした。
「20年前ぐらい前からやっでな、魚がとれんようになっているとですよ。やっぱり藻がなくなったせいかと。こまか頃(子どもの頃)には、あたり一面ずーっと藻があったばってん。テレビを見て『こがんことが、でくっと(できる)かねー』と驚きました」
小崎さんは、帆に受ける風の力と干満の差で生まれる潮流の力を利用した、この地域では“流れ”と呼ばれる底引き網漁を年間通して営んでいます。この漁法は江戸時代初期に瀬戸内海で発祥したといわれ、一般的には“打瀬網”という名で全国の浅い海に広まりました。しかし昭和30年代以降、動力の普及で急速に姿を消し、今ではわずかに北海道の野付半島と、八代海の芦北、出水(鹿児島県)の3か所にしか残っていません。
“流れ”という名称は、この地域独特の地形と気象現象に起因します。夜間に山で冷やされた空気は朝、谷筋から海へと強く吹き出します。河口付近の朝の気温は周辺沿岸部より低く、温かな海上では上昇気流が生まれます。“流れ”はこの風を利用しました。
「前はエンジンもつけんと帆だけで、朝の東風に乗って河口からすーっと、流れるごと海に出よったとですよ」と、小崎さんは懐かしみます。
エンジンの動力で海に出るようになった今も、漁場に着いたらエンジンを止め、風と潮の力だけで網を引きます。しかも、潮流と風向きが同一方向でないと漁になりません。そのため、出漁できる風と潮の条件がそろうのは、年間せいぜい150日ていど。しかし、そのおかげで資源管理ができ、細く長く続けられてきたのです。にもかかわらず環境の悪化で年々漁獲高が減り、“流れ”1本では食べていけなくなりました。春から秋までは“観光打瀬船”で稼いで、現在23艘がかろうじて生き残っているのが現状です。
漁協の八里(はちり)政夫組合長(61)は「アマモにこまいエビや小魚が寄るのを漁師は経験から知っとっとですよ。『海を滅ぼすわけにはいかん』という強い気持でアマモを植え始めたんです」と話します。渚一面に生えていたアマモは、20年ほど前に消えてしまったと八里さんはいいます。日本中の他の地域同様、河川工事や森林の荒廃によって土が川に流れ出したことや、生活廃水の影響などで海水が濁ったのが原因だと、八里さんは考えています。
「最近は浄化槽が普及して水はきれいになっていますが、砂地に住むクルマエビがまったくとれんようになったから、以前は砂だった海底が泥になっていると思うんです」
八里さんは今、目に見えにくい海底の環境が改善されていないことを心配しています。
■漁師の自主的活動から、海の再生の事業化へ
漁師たちが地道に続けていたアマモ再生の活動に、やがて熊本県に連なるさまざまな機関や組織が連携するようになりました。熊本県立大学環境共生学部・大和田紘一教授の研究室、熊本県農林水産部と環境生活部、天草諸島の大矢野島にある熊本県水産研究センター資源研究部、熊本県八代地域振興局、水俣市の株式会社みなまた環境テクノセンター(県の持ち株会社)などです。芦北町では熊本県立芦北高等学校の生徒たちが加わりました。
県立大学の大和田先生は海洋微生物が専門で、東京大学で海洋環境の研究していたところを熊本県に請われ、01年に赴任しました。03年から3年間、県を通した文部科学省の産官学連携事業のうち「藻類浄化機能利用プロジェクト」(以下「プロジェクト」)を担当。水俣市と芦北町で藻場再生の研究を始めました。藻類によって海の富栄養化を抑えることと、稚仔魚の成育場所である藻場の再生、この2つが「プロジェクト」のテーマです。
大和田先生はいいます。
「八代海が抱える問題は大まかにいうと、富栄養化による有害赤潮の発生、資源管理を漁獲努力が上回っていること、稚仔魚の混獲、などがあげられます。漁獲量は年々減少の一途です。打瀬網漁のような漁法だと資源管理ができるのですが…」
「プロジェクト」は、みなまた環境テクノセンターが事務局を務めています。水俣では水俣市漁協と共に食用マコンブとワカメの養殖に取り組み、海域の浄化と水産資源の再生で成果を収めました。05年からは“海藻株主”を募集、漁協の事業として地域に定着しています。
一方、芦北町で着手したのが、アマモ場再生の実証実験なのです。こうしたいきさつで、小崎さんら一部漁師のささやかな活動が、03年以降、県規模の“事業”となったわけです。
「プロジェクト」のつながりによって、芦北町のアマモ場再生活動は器材面でも充実しました。「プロジェクト」予算とは別に、財団法人水俣・芦北地域振興財団から助成を受けることができ、胴長やヘッドライトなどの装備、アマモ移植や播種、苗育成ための器材が整い、それを納めるプレハブ倉庫まで漁協敷地内に建てられました。
このほか、07年には農林水産省の助成で漁協に大型水槽が3基設けられ、苗の大規模な育成が可能になるなど、助成による活動の躍進が見られます。
(取材・執筆:大浦佳代)
この特集ページは平成22年度地球環境基金の助成により作成されました。