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[2-1]60戸の集落と地域外が共鳴して守る“鳴き砂”の浜(前編)|事例2:琴引浜の鳴き砂保全(京都府京丹後市網野町)“生物多様性”と現場をつなぐ事例集

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キーワード
1.生物多様性で暮らす
2.鳴き砂を守る
3.海のゆりかご
4.活動のアイデア
5.人工林の間伐
6.天然林の再生
7.海の森づくり
8.都会の生物多様性
事例
1.産直市場グリーンファームの取り組み
2.琴引浜の鳴き砂保全
3.アマモ場の再生
4.宍道湖のヨシ再生
5.森の健康診断
6.宮川森林組合の取り組み
7.アマモが取り結ぶ地域連携
8.野川の自然再生
9.草原の自然が育む生物多様性 人とのかかわりが「二次的自然」維持

事例2:琴引浜の鳴き砂保全(京都府京丹後市網野町)

[2-1]60戸の集落と地域外が共鳴して守る“鳴き砂”の浜(前編)


■網野町のひとと自然と鳴き砂の浜

夏の琴引浜は、海水浴場で大にぎわい

(財)日本ナショナルトラスト・ヘリテイジセンター「琴引き浜鳴き砂文化館」

京都府の北端、若狭湾を抱いてにょっきり突き出した丹後半島。網野町は、半島の西の付け根、日本海に面した人口1万6千人の町です。04年4月、網野町を含む周辺6町が合併して、人口6万人の京丹後市の一部となりました。

古代より大陸との交易がさかんで、港を見下ろす高台には全長200m近い日本海側最大の前方後円墳があり、3~5世紀ごろこの地に強大な権力があったことを物語っています。

300年前に、京の西陣から技術が伝えられた絹織物“丹後ちりめん”が基幹産業で、かつては家内工業的な機屋(はたや)が数多くありました。現在でも生産量は日本一です。

農業では、コメのほか沿岸砂地や国営開発農地でのメロン、ナシ、サツマイモなどが特産です。漁業では、大型定置網の漁獲がもっとも多く、その他に小型機船底引き網、刺し網、一本釣りなどの沿岸漁業が営まれています。また京丹後市のズワイガニは、漁場が近いことから、鮮度のよさ品質の高さで広く知られ、冬の観光の目玉になっています。


鳴き砂を顕微鏡で見てみると…。透明で美しい石英の粒です。

生物相が豊かな琴引浜で拾える、小さな小さな貝たち。微小貝は、数ミリでも立派な大人の貝です。

庸介さんが考案した、24時間稼動の“砂洗浄機”。箱に砂と水を入れ、左右にゆすって洗浄する仕組み。

網野町には、日本どころか世界にも誇る宝物があります。

3年前に国の天然記念物および名勝に指定された、琴引浜(ことひきはま)です。1800mも続く砂浜の全体が“鳴き砂”という、日本最大級の鳴き砂の浜です。琴引浜は、人工物がいっさいない美しい自然海岸であることから、「日本の白砂青松百選」(90年、社団法人日本の松の緑を守る会選定)、「残したい日本の音風景百選」(96年、環境省選定)、「日本の渚百選」(96年、日本の渚・中央委員会選定)などにも選ばれています。

鳴き砂とは、砂の上を歩くと独特の音で砂が鳴る現象です。ふつう砂浜を歩くと「ザクッザクッ」という音がしますが、鳴き砂は違います。「キュッキュッ」「グッグッ」というような不思議な響きです。地元にある(財)日本ナショナルトラスト・ヘリテイジセンター「琴引浜鳴き砂文化館」によると、鳴き砂の正体は石英の粒。石英はよく洗浄されていると、表面の摩擦係数が極端に大きくなる特性があります。砂に力をかけ続けると砂粒が一団となって振動し音が出るといい、片栗粉や新雪が音を出すのと同じ現象だそうです。

石英はありふれた鉱物です。かつて日本中に鳴き砂の浜はたくさんありました。しかし、鳴き砂は“汚染されていないこと”が鳴るための必要条件です。開発や埋め立て、砂の流失だけでなく、汚染によっても鳴き砂の浜は消え、現在確認されている鳴き砂は全国でわずか30か所ほど(湖畔や山中の地層なども含む)だといいます。

汚染されていない鳴き砂の海岸は、生き物の楽園です。砂を手にとってよく見ると、さまざまな色や形の微小貝や有孔虫類の殻が見つかります。環境の変化に弱い微小貝の種類がこれほどの数で確認されている浜は、全国でも他に例がないそうです。砂が鳴ることは、本来の自然の生態系が守られている証であり、バロメータだといえるのです。


■“外圧”がきっかけの、浜を守る活動

守る会を立ち上げ、活動を支えてきた皆さん。

松尾庸介さん(右)と、息子の松尾省二さん。

「海の砂は鳴るもの」。琴引浜に最も近く、自治会で浜の管理をしてきた掛津(かけつ)のひとびとは、皆そう思っていたそうです。ところが、この“ありふれた砂浜”に何かと関与してきたのは、地域外のひとや資本、あるいは外洋から漂着するモノたちでした。

23年前に発足した「琴引浜の鳴り砂を守る会」(以下守る会)は、現在の会員数250人。うち4分の1が地元、4分の1が網野町、他は全国各地の応援者です。守る会の立ち上げ前から活動してきた地域の方5人に、その歴史の一端を語っていただきました。

宇野貞夫さん(74)は、掛津住民で琴引浜鳴き砂文化館の館長、守る会事務局長です。定年退職後、初代館長になり8年です。

集落は違いますが、三浦到さん(61)は町役場職員として、守る会と行政の橋渡し役を担ってきました。

会長は、掛津で漁業と民宿を営む松尾庸介さん(75)。強い精神力で屋台骨を支えてきました。

庸介さんの末弟、松尾信介さん(63)は京丹後市会議員。

庸介さんの長男、松尾省二さん(47)は23歳でUターンして家業を継ぎました。広い視野と人脈を生かし斬新な発想を繰り出す、事務局の要です。

掛津は、約60戸200人の集落です。冬の季節風と砂を避け、浜から少し入ったところに肩を寄せ合うように家が建ち並びます。どの家からも浜が見えるといいます。かつては丹後ちりめんの小さな機屋が多く、「ガチャコン、ガチャコン」という織機の音が一日中響いていたそうですが、今では4、5軒に減りました。機屋は民宿に転身、現在およそ15軒が夏は海水浴客、冬はカニなどの味覚を楽しみに訪れる観光客を迎えています。風光明媚な網野には昔から歌人などがよく訪れました。もてなしの気風が今に受け継がれています。

浜の保護に最初の一石を投じたのが、粉体工学と石臼の研究者で同志社大学教授だった故・三輪茂雄さんです。庸介さんの亡父、栄治さんが営む宿「松栄」をよく訪れ、栄治さんと親交を温めていました。76年、三輪さんは遊歩道計画反対の要請書を町に提出します。

庸介さんは「先生は『こんなけっこうな砂浜があるのに…。ひとの手ではつくれないものをもっと大切にしなさい』というんです。そういわれると『大事にせんとあかんかいなー』とは思うものの、浜にも砂にも特別な思いは何にもなかったんです」と、懐かしそうに話します。

まず町が三輪さんの考えに理解を示し、琴引浜を町文化財に指定。さらに三輪さんの提案で、町から(財)日本ナショナルトラストに調査を依頼、報告書の発行と同時に保全を考えるシンポジウムを開きます。その過程で地元に保護の気運が生まれ、87年に守る会が発足したのでした。

当時、教育委員会にいた三浦さんはこう述懐します。

「直接的にはリゾート開発も関係しています。ちょうどバブル期で大阪の不動産業者が買収に乗り出してきたりしていたんです」

庸介さんは冗談めかして「外圧に負けたんですわ。外からだんだん仕掛けがせばめられて、しぶしぶ腰をあげたようなもんですわ」と笑いますが、こう続けます。

「しかし、やはり人の輪ですね。三浦さんが教育委員会におられて『(事務局の)やっかいごとは引き受けるがなー』といってくださり、村の中に声をかけると『そうかー、やろうか』というひとがあってくれたのです。だから守る会ができたし、今までずっと続いているわけです」

(取材・執筆:大浦佳代)



この特集ページは平成22年度地球環境基金の助成により作成されました。