[5]森の健康診断(矢作川流域)
事例5-2:市民と研究者のパートナーシップでモデルを確立
■市民と研究者が対等平等に向き合う「矢作川森の健康診断実行委員会」
丹羽さんは、適切にサンプリングして「山林の健康診断」をおこなえば、矢作川流域における放置林の実態を統計的に把握できると思った。そして、矢森協のメンバーと市民が協力すれば、この計画は実行できるとも感じていた。すると、放置林の調査だけではなく、森林の生態についても調べてみたいと調査計画がふくらんでいった。けれども、森林塾で学んだ調査手法では、下層植生や土壌のことまではカバーできない。そこで、研究者を探したところ、矢作川研究所の州崎燈子研究員と東京大学愛知演習林の蔵治光一郎講師に出会った。ここから、市民と研究者の協働による「森の健康診断」が始まった。
市民と研究者が、互いに補完し合う対等な関係を築くのは容易ではない。よくあるのは、パートナーシップと言いつつも、素人である市民が研究者に従うような関係である。一般の市民は、研究者の手足となって動くだけの調査に参加しても面白くない。そこで、市民と研究者が対等平等の関係で調査を進めていくために、矢森協とは別に矢作川森の研究者グループ(以下、矢森研)を立ち上げた。そして、(狭義の)矢作川森の健康診断実行委員会は、矢森協と矢森研の2つの団体によって構成され、ここが決議機能を持つことにした(広義の実行委員会は、関係自治体や森林組合や市民有志が加わる)。
■楽しくて科学的な「森の健康診断」をめざして
市民と研究者との間で、「森の健康診断」の調査項目や手法について話し合った。しかし、両者はこだわる点に違いがあるので、簡単には話がまとまらない。市民の場合、調査自体を工夫しながら楽しみたいし、多くの人びとが力を結集した結果が出ると嬉しい。一方、研究者は科学的にデータを集めたいので調査の精度に気を配り、学会で報告できるような新しい知見を得たいとも思う。
調査に参加する一般市民を飽きさせない楽しさと、調査としての科学性に折り合いをつけるにはどうしたらよいのか。繰り返し議論して煮詰めていった。たとえば、樹木の胸高直径を何mm単位で測るのかを議論したとき、研究者は1mm単位で測定することを主張したが、市民側は面倒だからと反論し5mm単位と決まった。植生の多様性については、植物種を同定できる人が十分に確保できないので、種類の違う植物の葉をシートに並べて数え写真を撮ることとした。また、研究者から土壌動物の調査が提案されたが、サンプルを取って帰り、後になって分析結果が出るという方法だったので、現場では調査を楽しめないという理由で却下された。
実行委員会では、調査の楽しさとともに、「全国どの流域でも応用できるモデルの確立」もめざしていた。このため、調査地点を決める際には、研究者のように森林簿を利用したりGPSを購入したりせず、どこでも容易に入手できる国土地理院発行の25,000分の1地形図を使うことになった。さらに、もっとも市民の知恵と工夫が発揮されたのが調査道具だった。多くの市民を巻き込みながら一斉に調査を実施するため、道具にかける費用は抑えたい。そこで、なるべく100円ショップで購入できるグッズを使うことにした。
斜面の向きや勾配を調べるには方位磁石と傾斜角度計、腐植層の厚さを調べるには移植ごてと物差し、樹木の幹の直径を調べるには巻き尺やノギスが必要だ。また、草と低木の種類を調べるときは、異なる形の葉っぱを白い無地のシートに並べてデジカメで撮影する。樹木の混み具合を調査するときは、釣り竿をぐるりと回して計測する範囲を定め、樹木を1本ずつ数える。結局、植生調査と混み具合調査のために必要な調査用具14点のほとんどは100円ショップでそろえることができた。やる気になれば、100円グッズをもとに始められる敷居の低さが、短期間で森の健康診断が全国に普及した要因である。
■参加者の社会的満足感を高める仕組み
第1回矢作川森の健康診断は2005年6月4日におこなわれた。矢森協のメンバーが中心となって一般参加者とグループを作り、約2kmメッシュに配置された調査地点へ行き、科学的で楽しい手法で森林の混み具合や生態系の調査をおこなった。しかし、「森の健康診断」は現場での計測だけでは終わらない。その調査結果を今度は研究者が中心となって解析し、報告会を開き、さらに報告書にまとめるのである。このように現場での計測から、その結果を公表するまでがワンセットである。これを10年間実施するという計画である。2008年3月には、ホームページを開設し、矢作川水系はもちろんのこと、ほかの地域の調査結果も合わせて広く社会的に成果を共有できるようになった。
調査に参加する市民は、森林の現状を調べるという知的好奇心を満たしたいだけではない。自分のグループが調べたデータを俯瞰してみると、どういう社会的な意味があるのか。それを知ることで、参加者は社会に役に立ったという社会的満足感が高められる。その証拠に、毎回の報告会には多くの参加者が集まるという。ここには、市民が始めた活動だからこそ、参加する一般市民に楽しんでもらいたいという気持ちが表れているようだ。
取材・執筆:松村正治
この特集ページは平成22年度地球環境基金の助成により作成されました。