[2]琴引浜の鳴き砂保全(京都府京丹後市網野町)
事例2-2:60戸の集落と地域外が共鳴して守る“鳴き砂”の浜(後編)
■地域の外に開いた活動の仕組みづくり
守る会の考え方として皆さんが口をそろえるのは、「ひとが入ってこそ浜が守られる」ということです。よしんば貴重だからと柵で囲ったとしても、ゴミは遠慮なく外洋から打ち寄せてきます。
「浜で何が起こっているのか、ひとが見て知って手を入れないかぎり守れない」
守る会では浜を外に向かって開き、多くのひとがかかわることで、一緒に守っていこうと考えたのです。
守る会の長い歴史にはいくつかの節目があります。発足当初はゴミ対策に集中し、浜の清掃に知恵を絞りました。夏の海水浴シーズンにゴミかごを設置したところ、ゴミがあふれて処分に苦慮したことも。浜に流れ込む川を浄化しようと、炭を詰めた箱を設置したら直後に台風で流されたのは、今では笑い話になっています。この試行錯誤はしかし、成功失敗には関係なく、ひとのかかわりや仕組みづくりの蓄積として活動の財産になっていきました。
94年に始めた「はだしのコンサート」は、こうした経験が生かされた成功例のひとつです。この手作りコンサートのキャッチフレーズは「あなたの拾ったゴミが入場券」。実行委員長の省二さんは、「多くのひとに楽しみながら鳴き砂の浜を知ってもらい、なおかつゴミを拾う活動にも参加してもらう仕掛けです」といいます。
同じ発想が、集落が管理する駐車場料金の考え方にも生かされました。それまでの “駐車券”から“清掃協力費”に名称を変え、しかも800円から1000円に値上げして浜の保護活動に協力を呼びかけたのです。また、90年代の前半は「全国鳴き砂ネットワーク」を立ち上げて全国に仲間を増やし、琴引浜の活動について広く発信する時期でもありました。
そして運命の97年1月、大きな節目となったナホトカ号の重油流出事故が起こります。漂着した重油で一面真っ黒になった浜を目の前に、掛津のひとびとは「ゴミ拾いどころのレベルではない、もう二度と元の浜には戻せない」と、呆然と立ちつくしたといいます。ところが、もっと驚いたのは、間髪を入れず全国から大勢のボランティアが押しかけたことでした。
省二さんはいいます。
「漁師には海は自分のものという意識が強いんです。しかしこの海に何の縁もないひとが1万人もやってきて、凍てつく浜で除去作業をしている。不思議でならなかったです」
その疑問から発し、守る会ではボランティアの海への思いを聞き本にまとめています。外の鏡に照らされて、地域は浜の大切さを改めて考え、保護活動への思いを新たにしました。守る会は、ナホトカ号の事故を災い転じて福となしたのです。
「壁に当たった時、いつも“ヨソ者”が支えてくれました」と省二さんはいいます。
「しんどい時ほど、肩をたたいて大丈夫といってくれるヨソ者が現れるんです。琴引浜鳴き砂文化館も、町に建設費の陳情が通らず男泣きしていたところを、日本ナショナルトラストがヘリテイジセンターとして建てましょうと支援の声をかけてくれましたし…」
三浦さんは「行政との間も、地域とヨソ者に近い関係でうまく回っている」と考えます。守る会は行政に頼らないのがモットー。「補助金をもらうとものがいえなくなるから」(庸介さん)です。行政の中にいた三浦さんは、「行動を起こすのは守る会。行政はその動きを横目に見て、いかにうまく後追いし助けるかに力を注いできました」といいます。
01年の禁煙ビーチの条例化は、その最たる例です。それまで夏の海水浴シーズンには砂が鳴らなくなるのが常でした。95年9月、継続的に海岸ゴミの調査をしてきた東山高校(京都市)地学部の生徒たちが大量の吸殻を調査でカウント、「タバコが重大な砂の汚染原因なのでは」と、問題提起しました。地元には「夏はひとが多いから砂が汚れるのも仕方ない」というあきらめムードが定着していたのですが、この調査をきっかけに浜を禁煙にする取り組みを始めることになりました。
守る会では、JT日本たばこ産業から提供してもらった携帯灰皿や、空き缶の手づくり灰皿を配って観光客に呼びかけました。すると、効果は絶大。夏も砂が鳴るようになってきたのです。しかしやがて、資金も拘束力もない活動には限界も見えてきました。
「これは法的な仕組みがいるな、と。町で条例をつくろうじゃないかと動くことになったんです」と三浦さん。守る会の活動が同心円的に行政に広がって結実した成果でした。
■掛津区自治会と守る会の、絶妙な二重構造
「♪ピンポンパンポーン♪ 本日、9時から、浜の、ゴミ掃除をします」
浜に大量のゴミが打ち寄せると、掛津集落にはそんな町内放送が流れます。時間になると、ひとびとがぞろぞろと浜に集まってきます。掛津では、浜掃除は日常生活の一部なのです。
掛津区の自治会には、その名もズバリ“浜係(はまがかり)”という役員がいます。自治会は戸主を会員として約60人で組織します。集落はほぼ10戸単位で6つの組に分けられ、各組の役員として組長と浜係が1人ずつ決められるのです。浜係は、浜で何かあれば率先して働き、組単位での浜仕事の世話役も務めます。
宇野さんが区の浜掃除について説明してくれます。
「夏の海水浴シーズンの前後に1回ずつ、全戸から1人が出ていっせいに浜掃除をするんです。シーズン途中には、2組ずつで3回掃除に入ります。その他にも、年間通して浜で何かあると、浜係と組長、自治会役員合わせて18、9人が対応します。区の3分の1ですよ。役員は順番に回ってくるから、知らず知らずのうちに、皆の目が浜に向くようになってきたんでしょうね」
面白いのは、「守る会と掛津区自治会は、ひとは同じでも組織は別」ということ。
「区長さんと浜係は守る会の役員になるのが、暗黙のルールになっています。守る会が何かを始めようというときには、自治会に方針立てをお願いする。しんどいことは村がして主体は守る会、という変な構造ですけれど」と、庸介さん。
省二さんが続けます。「何かにつけ相反する意見は出ますよね、それを区でまとめようとすると大変ですけれど、別働隊に守る会の変わり者がいて、新聞やテレビに出てよくわからないけれど評価される。すると何となく納得して、じゃ協力するかとなるんです」。
三浦さんは「“市民”ではなくて“住民”がこれほど積極的にゴミ拾いをしているところなんて、全国探してもそうはないでしょう。鳴き砂があったからです」と鋭いところを突きます。たしかに、最近多いビーチクリーンアップは、そのほとんどが“市民”による活動です。
ただし、住民活動が活発になるには、「鳴き砂があるから」だけでは不足です。掛津にしっかりした自治会組織が残っていること、そして自治会とは別に守る会の存在があり二重構造になっていること、これが肝心なのです。集落の構成員の中に、集落と外とをつなぐ器と行動力を備えた人材があり、連綿と続いてきた村の仕組みの上に保護活動を築いたこと、これが琴引浜を稀有にした理由なのではないでしょうか。
ところで、駐車場管理と毎日のゴミ清掃は、7、8年前から掛津区自治会として、集落内のひとを通年雇用して行うようになりました。信介さんが区長を務めていたとき、駐車料金を“清掃協力費”にしたのと同時に踏み切りました。清掃協力費から人件費を除いた残りは区で使います。
「行政も財政難ですから、集落内の道路や側溝の工事、駐車場整備などをこのお金で行っています。暗黙の了解として個人には分けない決まりです。個人に分けるとどうしても欲に走ってしまうので」と信介さん。これぞ長年続く地域社会の知恵です。
さて。国の天然記念物指定で、ある意味、守る会は活動の到達点に達したといいます。その上で、皆さんは今後にどんな夢を描いているのでしょうか。
省二さんはいいます。
「昭和の始め、春のお彼岸に大きなお祭りがあったそうです、浜から集落まで出店が並ぶような。そんなイメージで多くのひとが来て地域が元気になるといいですね。コミュニティービジネスというのかどうか、小さくてもゆっくりでも地域にお金が回る仕組みをつくりたい。地域の大人たちにはその思いがずっとあったと思います」
「やはり観光ですね」と、三浦さん。今、ガイドに力を入れようという動きが出ているそうです。
「民宿のおかみさんなど、女性がとても元気です。多くのひとに泊まってもらって、砂浜をガイドして、鳴き砂文化館で環境学習をしてもらう。メニュー開発のイメージはできかかっているんです」
信介さんも宇野さんも、こう口をそろえます。
漂着物の中には、海藻のように自然の循環の一部で浜に残すことが必要なものもあります。海藻を「汚い」という観光客にきちんと説明できるようになろう、という話が“環境学習”に含まれています。そうすれば、子どもたちがかかわれる部分も増えてくると、皆は期待をふくらませます。
庸介さんは、「四国のお遍路さんのお接待みたいな、おもてなしができたらいいなというのがわたしの夢です」といいます。
「それと、集落の皆でわいわいと楽しくできる浜掃除が続いていってほしいと願っています。ここでもお葬式がすっかり業者任せになってしまって、わいわいやることがもうないですからね。浜掃除は村のなごみの場です」
掛津は、集落そのものがまるで鳴き砂のようです。守る会の働きかけで、ひとびとのかかわり合いから音の響きが生まれます。その響きが地域の外と共鳴し合いながら、見事なハーモニーを奏でてきました。ひとびとの夢が集まって、多重奏でますます力強い音楽が小さな村から流れ出していきそうです。
(取材・執筆:大浦佳代)
この特集ページは平成22年度地球環境基金の助成により作成されました。