No.037
Issued: 2014.02.13
さよならワシントンDC
いよいよ2年間の研修も残すところ3か月。最後の研修地ワシントンDCを去る日が刻々と近づいてくる。魚類野生生物局での研修を終了し、最終報告書を作成する。その合間にニューヨークやボストンを訪問する。帰国間際に環境省から出張者が来ることになり、思いがけずシェナンドア国立公園などを訪問することになった。
ボランティア終了
魚類野生生物局(FWS)本局国際課での3か月間の研修はあっという間に終了した。研修期間中に制作した、日米の渡り鳥保護協力に関する展示パネルや、関係者のデータベースを提出【1】した。
データベースは、これまで未整理のまま膨大なテキストファイルの形で残されていたものを手作業でエクセルファイルに変換する作業。微妙にスペルが違うロシア名、同じ名前だが所属や連絡先の違うもの、中にはロシア語や中国語のままのものも混在し、それらを整理しながら新旧や重複を特定していった。ピーターさんが担当するロシア、中国、日本、そしてそのカウンターパートとなる米国のアラスカやその他の関係者など、膨大なネットワークをデータ化することで仕事の効率化を図っていくのが目的だ。作業をしていると、いかに広範な連携のもと仕事をしているかがわかる【1】。
残された課題は、2年間の研修に関する英文レポートだけになった。こちらは帰国までに執筆して提出すればよいことになった。
ボランティア期間が終了すると、アパートを次のボランティアに引き渡さなければならない。移転先をいろいろ探してはみたが、結局同じアパートの家具付きの部屋を借りることにした。部屋は掃除付きで一か月2,300ドル(約25万円)もしたが、引っ越しが楽なことが決め手となった。書類などを箱詰めもせずカートで運搬した。ようやく生活のリズムもつかめてきた頃だったから、報告書の執筆と帰国準備に専念したかった。すでに米国内でも2回の引っ越しを経験している妻にとっても、無用な引っ越しは避けたいのが本音だっただろう。
家具や電化製品はボランティアアパートとは比べ物にならないほど立派だった。ライティングデスクも大きい。リビングもダイニングとほぼ独立していて広々としている。そこに遠慮なく資料を広げる。まず、研修の最大の収穫であるインタビューの記録を整理する。国立公園局の政策の変遷が複雑なので、順を追ってまとめておく必要もあった。この作業によって、マンモスケイブやレッドウッドといった研修地が、アメリカの国立公園の発展の過程で重要な位置づけにあることが体系的に理解できた。
マンモスケイブ国立公園は1941年の設立。国立公園区域は、もともとは人々が入植し暮らしていた場所だ。こうした住民を追い出す形で設立された公園には、その後も地域の人々との間にしこりが残った。同時期に設立されたグレートスモーキーマウンテンズ国立公園でも同様の立ち退きが行われたが、伐採跡地が多かったためが、それとも一大観光拠点であるためか、地域との関係はそれほど悪くない。いずれにしても、日本の国立公園のように、そこに住む人、そこにある慣行を受け入れた形で設立された公園とは大きく異なる。1900年代初頭に起こった米国東部における国立公園運動の典型がそこにある。
これに対して、レッドウッド国立公園は1960年代以降に大きな盛り上がりを見せた環境保全運動の流れを汲む国立公園だ。1968年の当初指定区域はかろうじて原生林が含まれていたが、1978年の拡張区域は広大な伐採跡地ばかりだった。また、周辺の伐採跡地から流入する土砂により、もともとの国立公園区域の生態系は壊滅的な打撃を受ける。こうした大きな損失と引き換えに国立公園局が手に入れたものは、国立公園におけるモニタリング機能や科学部門の大幅増強だった。私が所属していた科学・資源管理部門は、そのような強化策の賜物だったのだ。保護区の管理に欠かせないこうしたモニタリング機能は、ただ座して待つだけで手に入ったものではなかった。そんな実感を持つことができたのも、現場での経験があったからだろう。
環境省や東京都、その他からも実に様々な問い合わせをいただいた。見直してみると、報告書の項目立てを考える上で大変参考になった。
最後に、資料の中から参考になりそうなものを選び、和訳した。原典となった資料も直接参照できるよう、資料集は対訳の形にすることにした。用語など正式な和訳がわからないものや、予算書など毎年更新されるものは、もともとの資料がないとどの予算項目を指しているのがわからなくなるのではないかと考えたためだ。また、できるだけ表形式にまとめることにより、報告書を抜粋するだけで説明資料などとして使えるようにした。これは、帰国後さまざまな問い合わせがあった際には重宝した。
なお、魚類野生生物局については、保護区での現場経験がなかったことから、主に本局で扱っている予算書の概要をまとめることにした。国立公園局と異なり非常にわかりやすい構成になっていたため、概要をまとめただけでも十分報告書の素材になった。
こうして取りまとめた研修報告の結論は意外と単純な内容となった。
1つ目は、アメリカの国立公園と国立野生生物保護区、日本の国立公園の三者比較の結果、日本の国立公園はむしろ国立野生生物保護区に近いことがわかった点。また、アメリカの国立公園システムにもいろいろな公園地があり、マイナーな公園や小規模な公園にも実用的なヒントがあることもわかった。
2点目としては、それぞれの国立公園にモニタリングを担当とする部署があり、公園内の自然環境や文化財の状況を把握し、科学的な情報を収集し分析していることだ。このような機能があることで、公園内で行われる工事などの事業評価が実効あるものとなり、インタープリテーション部門にも正確な情報がもたらされている。また、利用者の少ない平日は、他の部門であぶれるボランティアを吸収することにより、ボランティア制度の運営を充実したものとしている。
3点目としては、保護区管理におけるボランティアプログラムの重要性だ。単なる働き手としてだけではなく、保護区の理解者、応援団のすそ野を広げたり、若手人材を発掘したりする機能も果たしていた。参加者としても、あこがれの国立公園に安く長期にわたって滞在できる、実際に公園の管理に携わってみる、もしくは職業とは別の自己実現の機会としてとらえているケースなどさまざまな動機があった。大学生にとっては、将来の職業選択のための非常に貴重な機会になっているようだった。
そして最後に、当たり前のことかもしれないが、保護と利用の両立を目的とする国立公園の維持と拡充には、国民の支持と理解が大前堤である、という点だ。アメリカの国立公園は、利用者へのアピールと満足度などのフィードバック調査を欠かさない。利用規制も実はそれほど行われていない。料金徴収や利用施設の配置の工夫、誘導などをうまく組み合わせることにより、できるだけ満足度が下がらないよう配慮していた。それでも、アメリカでも国立公園離れに歯止めがかからない状況があった。一方、魚類野生生物局では対話による問題解決に前向きだ。まだまだ国民的な支持は弱いものの、内向きになりがちな保護区管理者の視線が常に外を向いていることは印象的だった。
こうしてようやくとりまとまった報告書だが、果たしてどのくらい役に立っているのかは不明だ。ご参考までそのスキャンファイルを掲載したい。
- 研修報告書本編[PDF:1.34MB]
- 資料集1[PDF:7.7MB]
- 資料集2[PDF:5.47MB]
- 資料集3[PDF:6.06MB]
- インタビュー集目次[PDF:187KB]
- インタビュー集[PDF:1.36MB]
- コスタリカ域外研修報告書[PDF:2.49MB]
(なお、この報告書の概要版[PDF:1.28MB]は、(財)国立公園協会(現在は解散)により報告書としてとりまとめられている。)
引っ越し準備
こうしてアパートでの一か月は報告書三昧となった。寒いこともあって、用がなければアパートにこもりっきりで作業を行った。ようやく報告書にめどが立ったところでアパートを引き払い、さんざんお世話になっていた知人宅に居候として転がり込むことにした。
持ち物もどんどん処分した。報告書ができあがったので、資料の大半は廃棄した。ともに大陸を横断してきた愛車モンタナも売却することになった。中古車の買い取り業者に持ち込んだところ、ケンタッキーで購入した代金のほぼ4分の1に買い叩かれた。金額はともかく、この自動車との別れはつらかった。車社会のアメリカでは、自家用車との関係は日本とは違う。大げさかもしれないが、車を失った私たちは精神的にも物理的にもアメリカ社会から疎外されたような気がしたものだ。
荷物整理が一段落して、帰国後すぐに関係先に報告書を提出できるようにと、報告書の原稿をそろえて、印刷製本を申し込んだ。仕上がりを待つ間、ニューヨークとボストンを訪問することにした。
ボストン訪問
ボストンには、高校時代に交換留学生として来日していたスコット君がいた。すでに結婚して息子さんが一人いた。
ワシントンDCからは電車で移動した。これがアメリカ滞在中の唯一の鉄道の旅となった。ボストン郊外の一軒家は広々としていて、近くにはきれいな小川も流れている。私たちは2階のゲストルームに泊めていただくことになった。
保険会社に勤めるスコット君はいつも忙しそうだったが、仕事の合間を縫ってハーバード大学や名物料理のクラムチャウダーの店などに連れて行ってくれた。滞在中私がどうしても行きたかった「カートーク」のスタジオの前にも案内してくれた。アメリカの長寿ラジオ番組で、マサチューセッツ州のハーバードスクエアにある小さなスタジオから放送されている。車に関するよろず相談番組なのだが、ほぼ半分は笑い声と思えるほどにぎやかな番組だ。手のかかるアメ車に乗っていた者としては、実に参考になる番組だった。帰国する前にはぜひ訪問したいと考えていた。
もう一か所、スコットが連れて行ってくれた場所がある。こちらはかなり意外な場所だった。当時、どうしてもわからないちょっとした謎があった。「なぜアメリカの豚肉は安くておいしいのか」というものだ。とんかつが大好物の私にとって、分厚く格安でかつ柔らかいアメリカの豚ヒレ肉は大変魅力だった。何とかパン粉を作っては日本風のとんかつを揚げてもらって食べたものだ。そんな話をスコットにしたところ、わざわざ遠回りして牧場の近くを車で走ってくれた。運転席から指差す先には、小山のような動物が動いていた。
「あれがそのブタだよ」
というスコットの言葉に違和感があった。豚というよりは背中のまるい牛のようだ。
「大きいけどまだ子どもなんだ」
要は、成長ホルモンで成長を促し、子豚のまま出荷できるサイズにまで成長させてしまうわけだ。飼育期間が短いので安いし、子豚の肉質だから柔らかい。ようやく謎が解けた。出荷までにはホルモンはなくなっているはずだが、以来、それほど豚肉を食べることはなくなった。日本に帰ってきて相変わらず固い生姜焼きにため息をつきつつ、少しホッとする。
ニューヨーク訪問
ニューヨークは完全な観光旅行になった。エンパイアステートビル、ブロードウェイ、セントラルパークなどを回ったが、それまで暮らしていたところとは全く違う場所だった。これまでなかなかいいお土産がなかったが、ニューヨークにはちょっとした小物がたくさんあったから、日本への土産をたくさん仕入れることができた。アウトレット店では半日ほどつぶして、4月からの職場復帰に向けてネクタイや靴などを仕入れた。買い物の詰まった大きなカバンを抱えて、高速バスでニューヨークからワシントンDCへ戻った。
英語の報告書の原稿も、ニューヨーク滞在中にほぼ完成した【2】。この報告書を提出すれば研修が無事終わるはずだったが、帰国直前にちょっとした仕事が入ることになった。
環境省からの出張者来訪
帰国日のちょうど6日前、環境省の先輩レンジャーが急きょワシントンDCに来ることになった。年度末でようやく旅費のめどが立ったので、ぜひ国立公園の施設がみたいという。一か月ほど前に連絡があったが、本当に来るかどうかは半信半疑だった。旅程は、DC周辺の滞在が3日間、その後西海岸の国立公園に移るというものだった。西海岸のアレンジは国立公園局国際課のルディーさんにお願いした。
DCからの3日間の訪問先は、迷わずウェストバージニア州のハーパースフェリーにした。国立公園局のデザインセンター、ハーパースフェリーセンターを訪問【3】して、2003年当時に策定されたばかりだったサインマニュアルや標識類の新基準についてもう一度伺いたかったし、レンジャー研修所であるマザー研修所も再訪しておきたかった。シェナンドア国立公園の施設の責任者が対応してくれることも決まった。車はすでに売却してしまったが、ちょうど帰国の一週間だったので、空港でレンタカーを借りることにした。季節外れということもあり、大型の4WDが格安でレンタルできた。これで最後は自力で空港までたどり着けるめどもたった。
国立公園施設見学
レンジャーの大先輩のIさんとその同僚の2人連れは英語が全くわからない。ところが、国立公園内の施設整備を担当しているだけに、専門的な質問が飛び出す。通訳を買って出たはいいが、電子辞書を片手に四苦八苦しながらやりとりする。二人にとっても、これらの訪問先は希望にかなっていたようで、相当収穫があったようだ。おそらく、こうした施設を専門にした調査というのはあまり行われなかっただろう。
特にシェナンドア国立公園では、主要なトイレをことごとく見て回ることになった。すでに閉鎖されていたが、直近まで使われていたという便槽型の木造トイレから、ビジターセンター付属のしっかりとした水洗トイレまで、案内してくれる方も同じ施設担当だけあって説明に熱が入った。男子トイレのバックヤードは特におもしろかった。小便器が並んでいる壁の反対側にメンテナンス用のスペースがあり、便器関係の配管がむき出しになっている。通常日本では埋め込みになっている給排水管が露出しているため、物が詰まった時でもコンクリートを破砕せずにメンテナンスができる。建物自体は大きくなってしまうが、道路も駐車場もゆったりと作ってあるため、それほどの圧迫感はなかった。
ハーパースフェリーセンターでもマザー研修所でもこんな調子で、かなり好意的に受け入れられた。日本からの訪問者は、大体通り一辺倒の質問しかしない。ウェブサイトに載っているようなことを聞くだけのことも少なくない。施設の設計やメンテナンスは、公園管理者にとって苦労も工夫もあるところだから、突っ込んだ質問や意見交換などには熱が入ったのもわかる気がする。
マザー研修所では、研修所の取り計らいで、アパラチアントレイルを維持管理している「アパラチアントレイル・コンザーバンシー(ATC)」の職員との意見交換も行われた。日本でも長距離自然歩道が整備されているが、歩道の管理が大きな問題になっていた。アメリカの先進事例としてアパラチアントレイルの管理について話を伺ったが、このATCこそボランティア精神の塊のような団体だった。社会が成熟するにつれ、日本でも必ずこうした団体が活動できるようになるという気持ちにもさせられた。
その後、Iさん一行を空港に送ってからは、もうほとんど記憶がない。アメリカ滞在中さんざんお世話になったNさん一家には結局最後のがらくたまで引き取ってもらう始末。最後においしいイタリアンをごちそうになり、空港まで見送っていただいた。
日本に帰国してからはアメリカのことなど思い出す余裕もないような毎日が待っていた。航空便で製本されたレポートが届き、それをJICAと所属先に提出し、研修は終了した。
なお、Iさんはその後しばらくして、業務で尾瀬の燧ケ岳に登った翌日、急逝されてしまった。本当に残念でならない。この場をお借りしてご冥福をお祈りしたい。
妻のひとこと
アメリカでの携帯電話
アメリカ横断中、一番心配だったのが車の故障でした。特に、横断中に砂漠の真ん中で故障してしまったらどうしようと思っていました。そこで、携帯電話を購入することにしました。最初の横断の直前、ケンタッキー州のスーパーマーケットでプリペイドカード式の電話機を見つけ、カードもついたものを20ドルほどで購入しました。
2度の横断中は幸い大きな故障もなく、電話機を使うこともありませんでした。また、私たちがあまり英語での会話が得意ではないと思われたのか、ほとんどの連絡は電子メールでした。そのため、プリペイドカードのポイントはまったく減らず、逆にキャンペーンなどで増えていきました。
ところが、ワシントンDCに来てから様子が一変しました。急に携帯電話を使うようになったのは、現地の日本人との連絡のためでした。特に、いろいろな荷物を必要な方にあげたりお譲りしたりしたのですが、その連絡には大活躍しました。また、帰国直前に日本からお客さんが来た時にもかなり使いましたが、それでもすべてのポイントを使い切ることができませんでした。
- 【1】関係者データベースの作成
- 第33話「妻のボランティア参加」
- 【2】ピーターさんに提出した英文の報告書
- 「U.S. Parks and Refuges -Through my experience-」
- 【3】国立公園局のデータセンター、ハーパースフェリーセンター
-
・第30話「ハーパースフェリーセンター訪問」
・米国国立公園の標識整備(入り口標識を中心として)(国立公園No.658/NOV 2007)p.24-25
・米国国立公園の標識整備(入り口標識を中心として)(国立公園No.658/NOV 2007)p.26-27
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(記事・写真:鈴木 渉)
※掲載記事の内容や意見等はすべて執筆者個人に属し、EICネットまたは一般財団法人環境イノベーション情報機構の公式見解を示すものではありません。
〜著者プロフィール〜
鈴木 渉
- 1994年環境庁(当時)に採用され、中部山岳国立公園管理事務所(当時)に配属される。
- 許認可申請書の山と格闘する毎日に、自分勝手に描いていた「野山を駆け回り、国立公園の自然を守る」レンジャー生活とのギャップを実感。
- 事務所での勤務態度に問題があったためか以降なかなか現場に出してもらえない「おちこぼれレンジャー」。
- 2年後地球環境関係部署へ異動し、森林保全、砂漠化対策を担当。
- 1997年に京都で開催された国連気候変動枠組み条約COP3(地球温暖化防止京都会議)に参加(ただし雑用係)。
- 国際会議のダイナミックな雰囲気に圧倒され、これをきっかけに海外研修を志望。
- 公園緑地業務(出向)、自然公園での公共事業、遺伝子組換え生物関係の業務などに従事した後、2003年3月より2年間、JICAの海外長期研修員制度によりアメリカ合衆国の国立公園局及び魚類野生生物局で実務研修
- 帰国後は外来生物法の施行や、第3次生物多様性国家戦略の策定、生物多様性条約COP10の開催と生物多様性の広報、民間参画などに携わる。
- その間、仙台にある東北地方環境事務所に異動し、久しぶりに国立公園の保全整備に従事するも1年間で本省に出戻り。
- その後11か月間の生物多様性センター勤務を経て国連大学高等研究所に出向。
- 現在は同研究所内にあるSATOYAMAイニシアティブ国際パートナーシップ事務局に勤務。週末、埼玉県内の里山で畑作ボランティアに参加することが楽しみ。