No.023
Issued: 2010.01.21
さよならレッドウッド
レッドウッド国立州立公園を去る時が目前に近づいてきていた。アラスカでの2週間があっという間に過ぎ、滞在期間は残すところあと1ヶ月ほどになっていた。次の研修地、ワシントンDCでの研修が11月半ばから始まる。出発までに、荷物の整理、職員へのインタビュー、そして職員向けに、私たちの研修成果に関するプレゼンを行わなければならない。二次林の調査もまだ担当分が残っている。
10月に入ると、夜、雨が降ることが多くなった。レッドウッドに雨の季節がやってきたのだ。レッドウッドの静かな雨音を聞いていると、来月にはここを出なければならないということが信じられなかった。私たちは、すっかりこの森と公園が気に入ってしまっていた。
引越し準備
レッドウッドは緯度からすると日本の青森県のあたりだが、太平洋に面しているため、気候は湿潤で、気温は滅多に氷点下にはならない。日本人にとって、この湿潤で温暖な気候は何よりだ。夜間、静かに降り続く雨音にはなぜかホッとさせられる。私たちが最初の研修地であるマンモスケイブからここに到着した1月にも、こんな雨が降っていたことを思い出した。
アラスカから帰ってくると、夏休み中に大勢働いていたボランティアやインターンはほとんど大学に戻ってしまい、事務所は静けさを取り戻していた。雨期に入り雨の日が多くなったこともあり、野外作業に出る頻度も減ってきた。蚊がいなくなった代わりに、森の中でじっとしていると体が冷えてくる。針葉樹が多く地形が厳しいレッドウッドでは、雨が降ると足元が滑りやすくなる。GPSの精度も下がってしまうので、雨期はあまり調査には向いていない。
一方、私たちの方は、急に身の回りが慌しくなってきた。まず、アラスカでの調査内容が予想以上に充実していて、インタビューの内容をまとめるだけでも一仕事だった。また、レッドウッドで溜め込んだ国立公園局の資料が山のようになっていて、これを分類して整理しなければならなかった。国立公園局分は、レッドウッド滞在中にとりまとめて処分する予定であったが、資料が増えるばかりで整理が追いつかない。
加えて、次の研修地であるワシントンDCへの途中、国立公園局や野生生物局の機関を回ることになっており、アポイントをとるためのやりとりに相当時間がかかった。ワシントンDCでの住居の調整や、転居のための手続きなどもある。
そして何より、私の中で、この巨大でシステマティックな国立公園局という組織の全体像が、まだ理解できていないというあせりがあった。
なぜ、一般の市民からの信頼がこれほど厚いのか、なぜ自然地域における公園において文化的な遺産を一体的に管理できるのか、なぜ日本にはない資源管理部門の機能が発達してきたのか、またその役割とは…。これらの疑問への答えはまだ得られていなかったが、これまで集めた資料やインタビューにいろいろなヒントがあった。
特に、アラスカでの一連のインタビューにはかなりの手ごたえがあった。ただ、その答えをはっきりとした形にしていくのは、最後の研修地であるワシントンDCまでお預けになりそうだった。
旅の計画
引越しの準備を進める中で問題になったのが、移動ルートの選定だった。ロッキー山脈をいつ越えるか、またどこを越えるかによって、横断中の予定が大きく左右される。
ワシントンDCのボランティア開始は11月中旬。ロッキー山脈に雪が降り始めるのは例年10月半ばなので、安全を考えればそれまでに急いでロッキー山脈を越え、コロラド州デンバーに入ってしまいたい。
デンバーには重要な連邦政府機関が集中している。デンバーで時間をかけてインタビューを行い、次にワシントンDCに近いウェストバージニア州まで足をのばして、国立公園局と魚類野生生物局の研修機関を訪問するのもひとつの手だ。結局、安全優先で、早めにロッキー山脈を越えることにした。
一方、経路選定の焦点はザイオン国立公園だった。ザイオン国立公園は、VERP【1】の手法を導入した代表的な例でもあり、ぜひ訪問したい公園だった。ザイオン国立公園を回るとかなり遠回りになるものの、インターステート70号線(I-70)を通ることになる【図1】。I-70の南側はいわゆる「グランドサークル」と呼ばれる国立公園の密集地帯だ。少し道をそれるだけでいくつもの国立公園や国立記念物公園を訪れることができる。マンモスケイブからもレッドウッドからも遠く、今回の横断の途中訪問しなければもうチャンスはないだろう【図2】。
ただ、I-70は最短距離となるインターステート80号線(I-80)よりも標高差が大きく、荷物を満載して走るにはあまり向いていないルートだった。ノーマルタイヤしか持っていないので、下り道で雪に降られたらかなり危険だろう。
「無理にロッキー山脈の国立公園に行かなくても、行ってない国立公園はこの近くにもあるわよ」
地図を見ながら妻がオレゴン州のあたりを指さす。確かにクレーターレイク国立公園にも行っていない。せっかくレッドウッドにいるのだから、太平洋岸地域の公園を優先する方がよさそうだ。ちょうど横断ルート上にあり、大きく回り道する必要もない。
こうして、ザイオン国立公園とグランドサークルの国立公園密集地帯はあきらめて、オレゴン州の国立公園を訪問した後に南下して、I-80でロッキー山脈を横断することにした【図3】。
資源管理部長インタビュー
出発を目の前にした月曜日の朝、資源管理及び科学部(Division of Resource Management and Science)部長のテリーさんのインタビューが実現した。
テリーさんは体格がよく、いつも親しく挨拶などをしてくれる。私たちボランティアは職員ではないので、組織上の上下関係といったものはないが、「部長」というと公園では所長に次ぐ役職になる。テリーさんはそんな肩書の堅苦しさを感じさせない人だった。レッドウッドの歴史や自然、文化遺産にとても詳しく、私たちも含め、職員皆が尊敬するテリーさんのインタビューは、今回の研修のまとめに欠くことのできないものだったが、とにかく忙しい人で、これまで的また時間が取れずにいた。
まずは経歴をうかがってみる。何となくかしこまってしまっておかしいが、今まで改めて聞いたことはなかった。
「初めて採用されたのは環境保護庁(EPA)でした。ダラス(テキサス州)のフィールドオフィスに6年間勤務した後、国立公園局のデンバーサービスセンター(DSC)の環境調査チーム(Environment Survey Team)に勤務しました」
それ以降、1980年から現在に至るまで、24年間をこのレッドウッド国立州立公園で過ごしている。いわば、レッドウッドの自然と文化の「生き字引」だ。
「レッドウッド国立公園に来ることになったのは、DSCの環境調査チーム在籍中に、この公園の集水域修復計画(Watershed restoration plan)の策定に携わったことがきっかけでした」
この計画は、国立公園区域拡張の骨格ともいうべきもので、レッドウッドの原生林再生に欠かせないものだ。1978年の公園区域拡張直後の最も重要な時期に抜擢されたことになる。
「国立公園局は、レッドウッドの広大な伐採跡地を再生するために、とにかく専門家を探していたんです。当時は、水棲動物、魚類、野生生物、植生、地質学などに関する専門家が集められましたが、いずれも臨時職員でした」
水生生物学者として採用されたテリーさんは科学部門(science division)の部長になり、後に科学部門と資源管理部門(resources management division)が統合された際に資源管理科学部長に就任した。
「現在では、ほとんどの公園で資源管理部門と科学部門が統合されていますが、以前はそれぞれが独立していました。科学部門が公園内の自然資源について調査し、問題が見つかった場合に資源管理部門が処理していたのです」
保護地域の管理と資源管理の歴史
「米国の保護地域の管理は、まず区域に沿ってフェンスを設置することから始まりました。つまり、自然地域の境界を定め、人の立ち入りを制限すれば、公園を守ることができると考えていたのです」
また、現在国立公園局が管理している国立記念物公園(National Monument)は、以前は森林局が管理していた。これらの公園を引き継いだ当初は、国立公園局も森林局同様、クマにエサを与えて利用者の見せ物にするなどのビジターサービスを提供していた。
「こうした国立公園局における保護地域管理の考え方が変化してきたのは、レオポルドレポート(1963年)【2】が発表されてからです。このレポートにより、保護地域での資源管理や保全に関する新しい考え方が導入されました」
テリーさんは席を立ち、1冊の本を書架から取り出した。
「これらの歴史については、この本がとても参考になります。よかったら差し上げます」
差し出されたのは"Preserving Nature in the National Parks"(『国立公園における自然の保護』)というちょっと厚めの本だった。まさに、国立公園における科学的な管理の変遷などについてまとめた書籍だ。
「連邦議会は、1933年に法律【3】を制定して、それまで他の政府機関が管理していた国立記念物公園(National Monument)、国立レクリエーション地域(National Recreation Area)などの公園地を、すべて国立公園局の管理としたのです。その目的は、こうした公園内の資源の保護(resource protection)でした」
この法律により、国立公園局は単に山奥の大規模な国立公園だけでなく、史跡や都市部のレクリエーションエリアなども含む、巨大な「国立公園システム」を管理する組織となった。
「さらに、1970年には、連邦議会が『公園ユニットは、すべて同程度の保護を受けなければならない』という解釈を打ち出したのです。これが、国立公園システムの管理の方針転換を決定的なものとしました」
この「解釈」は、それまで利用に重きが置かれ、軽視されがちだった公園内における自然の保護や調査のあり方を見直し、小さな歴史公園から大規模な国立公園まで、同じレベルの自然管理が行われることになったということを意味している。
1960年代後半から環境保全に対する意識が高まり、1969年のNEPA、水質保全法の制定など、合衆国政府でも環境問題への対応が急ピッチで進んでいた。国立公園局の資源管理方針転換は、これに続く1970年代に起きており、こうした環境保全運動(conservation movement)の高まりとも無縁ではないだろう【4】。
「例えば、1970年代まで、ほとんどの公園では一般的な業務を行うパークレンジャーが資源管理を兼務していましたが、それ以降、各公園に資源管理を担う科学の知識を有する職員が雇用され始めたのです」
つまり、こうした波の中で採用された最初の「科学レンジャー」の一人がテリーさんのような科学者のバックグラウンドを持つ職員なのである。
こうした政策の転換にこのレッドウッド国立公園が深く関係していたのは驚きだった。
「レッドウッド国立公園が1968年に設立された時点では、予定されていたレッドウッド原生林はごく一部しか国立公園にできませんでした。材木の価値が高かったため、所有者である材木会社が同意しなかったのです」
ところが、1978年に大規模な公園区域の拡張が行われた時には、国立公園設立当時まで原生林だった森林のほとんどが伐採されていた。公園として売却してしまう前に、すべての大木を伐採してしまったわけだ。これは、公園予定地の原生林が伐採されてしまったというばかりではなく、下流に位置する国立公園に浸食土砂が流入することによって、国立公園内の生態系が甚大な被害を受けるという結果を招いた。
「この事実は全米に大きな衝撃をもたらしました。このため、1978年のレッドウッド国立公園拡張のための法律には、1916年の国立公園局設置法の改正も含まれていました」
一公園の区域変更のための法律としては極めて異例な内容といえる。
「その内容は、『今後は、公園内の資源を損なってはならない』という規定です。レッドウッドの貴重な原生林を守れなかった反省から、国立公園システム全体の資源保護政策もついに大きく転換することを余儀なくされました」
“後悔先に立たず”はいずれの国でも同じことだが、アメリカの連邦政府はその失敗を率直に認め、その改善を法律に定めた。過ちを二度と起こさないための枠組みが政治主導でしっかり作られたのだ。
もうひとつの戦い
もちろん、法律ができればアメリカの国立公園の管理方針がすぐ変わるわけではない。制度や方針が変われば、それまで持っていた「既得権」を制限されるグループも必ず出てくる。
「この後に待ち構えていたのは、全米ライフル協会との法廷闘争でした」
1978年、国立公園局は、法律改正を受けた形で、国立公園システムのひとつである国立レクリエーション地域(NRA)内での狩猟(スポーツハンティング)を禁止した。これに対し、全米ライフル協会が、国立公園局を相手に訴えを起こした。この訴訟は、「保全(conservation)」という概念に、「狩猟」という行為が含まれるかどうか、という論争に発展した。国立公園局の設置根拠となる1916年の組織法には、目的の中に“conserve”(保全)が盛り込まれており、ライフル協会の訴訟は、「『持続可能』な狩猟はその範疇である」という主張である。
「国立公園局は、『保全は公園の資源を守ることを意味している。狩猟は認められない』と主張しました」
これに対しライフル協会は、「狩猟は資源の賢明な利用(wise use)のひとつであり、公園内での狩猟は認められるべきである」として、意見が真っ向から対立した。
「この論争は、『ライフル協会とPotter【5】との闘い』といわれました」
結局、判決によって国立公園局の主張が認められ、この論争は決着した。
「これは、ライフル協会というアメリカの巨大な利権団体に対する勝利であり、非常に大きな意味を持っていました」
この論争は、単に古くからの利権を取り除くことに成功しただけではなく、全米の世論にも変化をもたらした。つまり、国立公園システムでは、レクリエーションを目的とする公園地も含め、「自然を守り、伝えていくこと」が最優先されるという考え方が米国民に定着したのだ。
世界ではじめて国立公園をつくったアメリカですら、狩猟、伐採などのいわゆる消費的利用(consumptive use)の排除が実現したのは、ほんの20〜30年前ということになる。それも、レッドウッドの原生林伐採という大きな代償を払った上でのことだった。
政治と国立公園局の資源管理
「資源管理政策は、その時々の大統領により大きく左右されます。例えば、ジミー・カーター(元大統領 1977年〜1981年)は、アラスカに多くの保護区を誕生させました。また、レッドウッドの区域拡張を進めたのも彼の時代だったのです」
レーガン政権(1981年〜1989年)になってからは、その政策が大きく変化し、環境関係の政策は大きく後退したという。
「レーガン政権は、環境保全に関する法制度を『少し違った方法』で運用しました。例えば、EPA(環境保護庁)の取締部門が廃止されたのもその時代です」
一方、地元選出の政治家も、国立公園設立に大きな役割を果たしている。
「サンフランシスコ周辺のポイントレイズ国立海岸、ゴールデンゲート国立レクリエーション地域などの設立は、地元選出の連邦議会議員の活躍によるものです」
レッドウッド国立公園の設立(1968年)と拡張(1978年)を実現するために、多くのNGOやジャーナリスト、環境保護団体が奔走したのもこの頃のことだ【6】。レッドウッド国立公園設立の契機となった原生林の伐採は、巧妙かつ大規模に進められていた。伐採会社は、道路沿いだけは伐採せずに原生林を残す。このため、通常一般の人々からは伐採現場が見えない。
「市民は、『目に見えないものは気にしない』ものなのです。原生林が根こそぎなくなってしまっていても、私有地に入ってまでそれを見る人はいません」
そこで、地元の環境保護活動家は、危険を冒して伐採現場に侵入し、写真を撮って公表した。
「この写真は全米に大きな反響を呼び起こしました」
この盛り上がりを受け、地元有志が政府や議会に対する積極的なロビー活動を行った結果、国立公園の設立と拡張が実現した。
レッドウッド国立公園における利用者管理
最初の研修地であるマンモスケイブ国立公園の利用者数は年間200万人弱。ところが、レッドウッド国立公園の利用者数は50万人弱だ。公園面積はマンモスケイブ(21,000ヘクタール)の倍以上(45,500ヘクタール)あるのに、利用者数は4分の1しかない。
「オートキャンプサイトなど、レッドウッドのビジターサービス施設の多くは国立公園区域内ではなく、隣接する州立公園内に設置されています。現在のレッドウッド原生林を保存していくためには、50万人程度の利用者数が妥当であり、これ以上利用施設を作って利用者数を増やすとレッドウッドの自然が損なわれてしまうと考えています」
レッドウッド国立公園は、古い時代に設立された州立公園部分をつなぐ形で設立されており、主な利用拠点は州立公園内にある。国立公園にも利用施設はあるものの、あまり利用を進める方針はとっていない。実際、この年の1月に国立公園内唯一のオートキャンプ場を閉鎖している。
「オートキャンプ場の利用者により、海岸植生に悪影響が生じていたことが最も大きな理由です」
レッドウッド国立公園は無料公園であり入り口に料金ゲートがない。料金は、州立公園内にある特定のキャンプ場などの入り口で徴収されるだけで、基本的には無料だ。その分、レンジャープログラムなどのビジターサービスは少なく、駐車場などの施設も必要最低限の規模だ。
「ここは、もともとそれほど多くの利用者があるわけではありません。国立公園の設立経緯からしても、自然資源の保護を優先した、新しいタイプの公園と考えることができると思います」
これまで、アメリカの国立公園は、すばらしい景観美と、充実した施設とビジターサービスにより多くのビジターを集めてきた。レッドウッドは、このような伝統的な国立公園とは一線を画す、新しいタイプの国立公園であり、そうした管理方針が明確に打ち立てられている。
資源管理部門のこれから
最後に、私たちが所属していた資源管理・科学部門について伺ってみた。この部署は、国立公園内の自然や文化に関する調査、モニタリングをした上で、外来種除去などの対策を行っている。植物、魚類、地質などの専門家がたくさんいて、国立公園の管理組織の中でも特にユニークな部署だ。
「資源管理・科学部門についても、現在大きな組織改革の検討が進んでいるのです」
国立公園局では、国家環境政策法(NEPA)の施行に対応する形で、自ら行う建設事業などの環境影響評価手続きを充実させてきた。この制度の運用には、科学的情報に基づく影響評価書の作成が欠かせない。それを担うのが、資源管理・科学部門の専門家達なのだ。
「経験豊富な職員は、NEPAをはじめとする環境法規等遵守(Environmental Compliance)手続き関係の業務に携わることが多くなってきています」
法遵守といっても単純ではない。まず、事業予定地の自然、文化に関する情報を集め、その事業が妥当なものかどうか判断し、レポートを作成しなければならない。その際、不足しているデータは追加調査をしなければならない。私たちが従事したトレイルの現況調査【7】も、こうした追加調査のひとつだった。
この報告書をまとめ、事業部局と事業内容の調整や助言を行う。また、パブリックコメントを行う前には公園管理事務所内での合意もとりつけなければならない。パブリックコメントの意見のとりまとめ、対応、さらに必要な場合には事業後のモニタリング調査なども行う。
「おそらく、この資源管理・科学部は、大きく法遵守部門と、資源管理・科学部門に分かれることになります。今後の国立公園管理業務では、環境影響評価などのパブリックインボルブメントに関連する業務がますます重要になってくると思われるからです」
一方、リエゾンと呼ばれる、複数の部署にまたがる連絡調整職員のポストは削減されてしまうそうだ。
「こうしたポストは、組織の合理化の際に真っ先に削減されてしまう傾向にあるのですが、実際は組織にとってとても重要な役割を果たしているのです」
オペレーションセンターにも、取締部門、メンテナンス部門などの職員が詰めており、日常的に連絡調整が行われているが、こうした職員がいなくなってしまうと、業務が滞ってしまうことにもなりかねない。
太平洋・西部地域事務所の取組
「ところで、国立公園局では、『新しいことはいつも太平洋・西部地域事務所から始まる』と言われているのを知っていますか? このレッドウッドの所属する太平洋・西部地域事務所は、いつも新しいことに真っ先に挑戦するのです」
太平洋・西部地域事務所は、国立公園局の7つの地域事務所【8】のひとつで、ハワイ諸島から米国西海岸までの区域を管轄している。管轄区域にはヨセミテ、デスバレー、オリンピックなどの有名な国立公園を抱えている【図5】。
「この地域事務所では、『バイタルサインモニタリングネットワーク』を、モニタリングだけではなく、公園の管理を行う際のネットワークとして活用しています。
『バイタルサインモニタリングネットワーク』とは、国立公園システムのモニタリングを行うために設けられた地域区分のこと。全米を32の生物地理学的な(biogeographical)区分に分けている【図6】。
モニタリングの実施には相当な予算と人員が必要だ。ビジターサービスやメンテナンスと異なり、必要な予算や人員は公園面積によって決まるのではなく、調査項目に依存している。このため、公園自体は小さくても、自然資源の特徴によっては大きな公園並みの体制が必要になる可能性もある。こうした課題を解決し、小規模な公園でのモニタリングを支援するため、各ネットワーク内の主要な公園がモニタリングセンターとしての役割を担っています」
モニタリングを支援するために設置されたのが全米32のネットワークだ。
モニタリングセンターはネットワーク内の大公園内に設置されていることが多く、レッドウッドは、「太平洋北部海岸及びカスケード地域ネットワーク」の拠点公園として機能している【図7】。
マンモスケイブ国立公園にはカンバーランド・ペドモント(Cumberland Piedmont)ネットワークのオフィスが設置されていた【9】。
モニタリングセンターとなった公園は、ネットワーク内の比較的小さな規模の公園に職員を派遣し、相手方の職員と協力してモニタリングを実施している。日常的なデータの収集は現地の職員が行い、機器や専門的な知識を必要とする分析や、多くの職員を必要とする調査はモニタリングセンターとなる公園が支援する。レッドウッドでは、資源管理部門の職員は、ウィスキータウン国立レクリエーション地域のモニタリングや管理火災の実施のために出張することが多かった。
「このようなネットワークの導入により、ようやく小公園のモニタリングが可能となったのです」
このネットワークは、クリントン政権下の1999年に創設された「自然資源チャレンジプログラム(囲み参照)」の中で、「今後5年間の間にすべての国立公園ユニットにおいてバイタルサイン(重要生物指標)モニタリング(囲み参照)を導入する」という決定に基づいている。つまり、カーター政権で打ち出された「全ての公園の自然・文化資源を守る」ということが、クリントン政権によりようやく具現化されたわけだ。「全ての公園」での資源保護は、言い換えれば小さな公園でのモニタリングをいかに効率的かつ確実に実施するかということでもある。
このプログラムの導入により、アメリカの国立公園は単に「囲う」(公園区域を定め影響を排除する)ことから、「維持する」(資源状態を監視しながら順応的に管理する)レベルにステップアップしたと言えるだろう。
この事例は、対極化した二大政党下での政策の継続性やダイナミックな側面を示しているようにも思える。つまり、政党としての政策の一貫性と政権交代による方針の転換という相反する側面である。モニタリングのように、定期的に公園内の資源を観測し、記録していくことは、こうした政策の転換の中にあっても資源管理の一貫性を維持するために必要不可欠なシステムといえる。
「西部・太平洋地域事務所では、このバイタルサインネットワークを、公園の管理にも応用したのです」
その一例が、ITシステムの維持管理である。国立公園局は巨大なITシステムを構築しつつある。その管理のために高度なIT技術をもつ職員を雇用している。そうしないと、南部オペレーションセンターなどのようにGPSデータなどの膨大な自然環境データの保管と処理を行うシステムのメンテナンスは難しい。
「レッドウッドには、コンピューターシステムのエンジニアが2人いて、北部の管理事務所と南部管理事務所をそれぞれ担当しています」
多少大げさに言えば、ITシステムの管理は、これまでの公園管理の基本である「施設」、「利用」、そして「自然環境」につぐ、第4の公園管理業務に急浮上してきた。それを加速させたのがテロ対策に伴うセキュリティーの高度化だ。そして、このIT管理の存在が公園間の新たなネットワーク形成の原動力ともなっている。
「ネットワーク内の小公園には、専属のIT技術者を雇用する余裕はありません。そこで、レッドウッドの職員を派遣して、こうした小公園のIT管理を支援しているのです」
日本の国立公園管理の現場でも、かつて「ブロック制」というものが導入され、国立公園の管理事務所のネットワーク化が行われた。例えば、私が役所に採用され、初めて配属された中部山岳国立公園管理事務所(当時:現中部地方環境事務所)は、中部山岳国立公園内の管理官事務所(レンジャーステーション)だけではなく、近傍の上信越高原国立公園及び白山国立公園の事務所からの申請も処理していた。複数の国立公園に関する業務を地域内の主要な公園管理事務所に集約することにより、少ない人員と予算で現場のバックアップ体制が大幅に充実したと言われている。これも同じ発想だったのではないかと思う。
余談になるが、当時の日本の公園事務所の予算は非常に厳しく、電話代や切手代も相当に切り詰めていた。長電話は当然厳禁。一度、許認可の申請の件で電話をしていると、見かねた所長が所長室から飛び出してきて、「電話が長い!」といって電話を切ってしまった。長電話は経費にかかわらず好ましいことではない、当時はそういう教育が徹底していた。
一方、僻地で勤務する現地レンジャーとのやりとりには、予想以上に通信費や時間がかかる。レンジャーはほとんどが一人体制だったため、現地パトロールに出ると2〜3日つかまらないこともあった。携帯もメールもなかったので、電話、FAX、郵送の手段しかない。当時私は横長の短冊状のFAX送信票を使用していた。通信時間を節約し、B4のロール紙の幅を最大限活用するためのものだった。
このブロック制の導入については、当時これを担当されたH教授の環境時評に詳しく紹介されている【10】。
ウルフクリーク野外学校
私たちのボランティアハウスのあるウルフクリークというところには、野外学校がある。国立公園内に2ヶ所設置されている野外学校のひとつだ。ウルフクリークにはレッドウッドの原生林や珍しいトウヒの原生林があり、そのまわりを一度皆伐されてしまった二次林がとりまいている。きれいな小川(クリーク)が1本流れており、それがこの一帯の地名の由来ともなっている。
ウルフクリークの歩道地図の作成を手伝ったときには、GPSデータをとるために何度も歩道を歩き回った。特に、木の高さが100m近くにもなる原生林ではなかなかうまくデータがとれず何度も通うことになったため、野外学校に参加している子どもたちにも時々遭遇した。子どもたちに取り囲まれて質問されることもあれば、環境教育の材料としてインタープリターのネタにされることもあった。
野外学校には常勤の正職員1名の他、臨時職員1名、そして管理人が勤務している。春から秋にかけては、大学生のインターン2名程度がそれに加わる。
管理人のパムさんはネイティブアメリカンの女性だ。アウトドアスクールだけでなく、ボランティアハウスの世話もしてくれる。私たちが学校に続く砂利道のくぼみ(アメリカでは「ポットホール」と呼ばれる)を砂利で埋めてあげたのをとても喜び、それ以来とても親切に世話を焼いてくれた。
このアウトドアスクールは、主に地元の児童を1泊2日で招き、原生林の中や敷地を流れるクリークで自然教育を行う施設だ。広場でネイチャーゲームをしたり、原生林に寝転んだり、屋内で顕微鏡観察などを行う。
毎週月火、木金と週に2組のグループを受け入れる。バンガローは5棟あり、40名程度の子どもたちを受け入れるには十分な規模がある。
パムさんが忙しそうに電気自動車で走り回っている。いつもより何かうれしそうだ。
「今日はインディアンの子どもたちが来るんです。」
この公園では毎年1回、全国のネイティブアメリカンの子どもたちに向けた環境教育プログラムが開催されているとのことだった。
通常、国立公園の野外学校は地元の小中学校生を優先する。将来、地域の根強い公園サポーターになってくれるというしたたかな戦略でもある。だから、他の地域のグループの利用は原則として有償で、かつスケジュールに余裕のある期間に限られる。
一方、レッドウッド国立州立公園の位置するカリフォルニア州北部沿岸地域一帯にはネイティブアメリカンの居住地やコミュニティーが多い。今日のアメリカではネイティブアメリカンの政治力は決して弱くない。現に、通常は認められないカジノを運営する権利をもっていたりする。
「一般のインディアンは貧しくて、アルコール中毒が蔓延しているんです。カジノの経営はコミュニティーの自立を目的としていますが、多くの人々はいまだに社会の底辺で貧困に喘いでいます」
これは意外なことだった。アラスカの保護地域では、ネイティブアメリカンが非常に強い権利を持っている。狩猟もできるし、広大な土地の所有権を持っている。
しかし…。
個人の暮らしが物質的・経済的に豊かかどうかという点では確かに疑問が残る。伝統的な暮らしを続けるための権利はあるが、現代の教育や福祉、経済的な発展からは完全に取り残されているように思える。
「子どもたちはこのプログラムをとても楽しみにしているんです。国内を旅行することはめったいないし、ましてや国立公園でキャンプをするなんてことはほとんどないんです」
これを聞いて、パムさんの張り切りようがよくわかった。
ところで、パムさんが連れまわしている老犬の名は「イシー」。北部カリフォルニア州最後のネイティブアメリカンの生き残りで、Yahi族のIshi(イシー)という人物にちなむ名だそうだ。私たちはパムさんを通じて、ネイティブアメリカンの歴史や暮らしについて様々なことを学ぶことができた。
出発
ボランティアハウスに施錠して車に乗り込む。結局、ここに来た時よりさらに荷物が多くなってしまった。その上、今回は雪に備えてタイヤチェーンやスコップ、食材なども積み込んでいる。
鍵を返しに南部事務所に立ち寄る。最後のお別れだ。
「二次林調査、無事終わるといいですね」
「レポートができたら送るよ。2人とも気をつけて」
挨拶も早々に事務所を出る。公園の南の端にあるオペレーションセンターを出て、公園内の道路を北の方へ縦断していく。レッドウッドの森、太平洋、そしてまたレッドウッドの森。この日はとても天気がよかった。
約1時間弱かかるはずの公園を縦断する行程もあっという間に感じられた。公園の北のはずれにあるビジターセンターで昼食をとる。これでレッドウッドも最後かと思うとため息が出る。11月からはワシントンDCという大都市で研修し、翌年3月には帰国の予定だ。公園での現場研修は終わり、今後は事務所内のデスクワークが中心の研修になる。
昼食を終えて公園を出ると道路脇の風景が変わってきた。赤茶けた樹高の低いダグラスモミの二次林地帯に入る。少し内陸に入っただけなのに乾燥し、気温も上がってきた。このあたりでは今も伐採が行われている。
■自然資源チャレンジプログラム
自然資源チャレンジプログラム(Natural Resource Challenge Program)は、国立公園局による自然資源管理に関する大規模な科学・モニタリングプロジェクト。すべての国立公園ユニットに存在する自然資源を回復し維持するために1999年に設立された。このプログラムでは、設立後5年間に公園ユニットにおける自然資源管理を強化することを目標としている。
大きく、(a)インベントリー作成とモニタリング活動の拡充、(b)移入種対策の促進、(c)協力体制の強化、の3つを目的としており、次のような具体的な項目が盛り込まれている。
- 自然資源インベントリー(目録)作成の促進
- 大気及び水質を含むモニタリング活動の充実
- 在来種及び絶滅危惧種とその生息地の保全
- 積極的な非在来種の駆除
- 資源計画の改善
- 専門的な職員の確保
- 環境保護の強化
- 科学者及びその他関係者との協力の推進
- 科学的研究のための公園利用の促進
- 学習目的での公園利用
[インベントリー及びモニタリング]
チャレンジプログラムの最大の目標は、インベントリー(目録)作成とモニタリング活動の拡充にある。インベントリーは各公園の自然資源に関するベースライン情報となるものであり、現在12の基本となるインベントリーが特定されている。インベントリーは主にほ乳類、鳥類、魚類、両生類、は虫類及び維管束植物を対象としている。
モニタリングは、各公園における資源の状況を正確に把握するためのものであるが、これはこれまで国立公園内の資源の把握が十分でないという反省に立ったものである。
[非在来種の侵入とその対策]
2000年度の初め、国立公園局は外来植物種管理のために4つの外来植物種管理チーム(Exotic Plant Management Team)を設置した。この4チームは、それぞれハワイ諸島、フロリダ地域、首都地域、及びチフアフアン砂漠/短茎草地プレーリーにおいて活動している。
[協力体制の構築]
米国地質調査局(USGS)など、関係する政府機関などとの新たな協力体制も現在構築中である。いくつかの地域では既に、複数の大学による共同生態系研究ユニット(Cooperative Ecosystem Studies Units:CESU)が設置され、公園に対して技術的補助、研究及び教育活動の支援などが行われている。
CESUに参加するためには、ユーザー(公園)側が10,000米ドルの会員料金(入会時のみ)を支払った上で、一人当たり15%の人件費を負担することにより、大学との共同研究、大学教員等による協力が円滑化されるというもの。類似の枠組みに共同調査ユニット(Cooperative Research Units:CRU)がある。CRUでは一会員あたり年間5,000〜10,000米ドルの支払いが必要となる。
[研究学習センター]
研究学習センター(Research learning centers)の設置も、チャレンジプログラム構想の重要な構成要素である。客員研究者のために実験室スペースを提供し、公園の中で研究活動を行い、得られた公園に関する科学的知見を直接一般の人々にも提供することをねらいにしている。センター施設は、公園区域外に新たに建設されるか、もしくは公園内の既存施設の再利用(adaptive reuse of existing facilities)により設置される。
最初の学習センターは、ロッキーマウンテン国立公園、グレートスモーキーズ国立公園、ポイントレイズ国立海岸、ケープコッド国立海岸、及びキーナイフィヨルド国立公園に隣接するアラスカ州のスワードなどに設置され、現在は18箇所に設置されている。
■バイタルサイン(重要生物指標)モニタリング
公園内の自然資源のモニタリングは、各公園における資源の状況を正確に把握することを目的としている。一方、すべての資源を監視することは困難であるため、それぞれの公園における生態系の健全性を示す基本的な指標を特定する。これらを、「生態系の維持に不可欠な構成要素(vital components of the ecosystem)」といい、その変化を示す指標(これを「バイタルサイン(重要生物指標)」と言う)についてモニタリングを実施するのが、国立公園局の「バイタルサインモニタリング」である。
バイタルサインは、例えば受粉媒介者の存在、絶滅危惧種もしくは危急種、大気及び水質、侵食及び斜面の安定性など、公園の質及びその重要なトレンドをより的確に評価するために必要な指標であり、それぞれの国立公園ユニットごとに設定される(表1参照)。
バイタルサイン・モニタリングの特徴のひとつは、全米32のモニタリングネットワークを設立したことである(表2及び図6参照)。モニタリングネットワークは、従来の州境などの行政区域にかかわらず、生物地理学的な特質などに基づいて設定されていることが特徴である。
モニタリング業務には重複が多く、小さいユニットには専門の職員がいないことも多いことから、モニタリングの機能をネットワーク内の大公園に集約することによりモニタリングの効率性が大幅に向上している。また、このネットワークは、モニタリングの枠を超え、公園同士の業務提携の枠組みも提供しており、今後予算不足が進むにつれ、ネットワーク内の公園相互の業務提携が進むことが予想される。
(表1)モニタリング対象として優先度の高いバイタルサインのリスト
(表2)バイタルサインモニタリング ネットワークリスト
- 【1】VERP
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・第14話「ヨセミテ国立公園へ!」
・第21話「アラスカへ(その3)」 - 【2】レオポルドレポート(1963年)
- 第14話「ヨセミテ国立公園へ!」脚注15参照
- 【3】1933年に法律を制定
- 「Park, Parkway, and Recreation Area Act」または「Executive order, Administration Reorganize Agencies Act」と呼ばれる。
- 【4】1960年代という時代
- 第14話「ヨセミテ国立公園へ!」
- 【5】Potter
- 当時の内務次官補(Assistant secretary of the Department of Interior)。内務次官補は、アメリカ連邦政府の政治任用職員(ポリティカルアポインティー)で、内務長官 Secretary of the Interiorを補佐し、実質的に政策を実行する政府の要職である。
- 【6】レッドウッド国立公園の設立と拡張に奔走した人たち
- 第11話「レッドウッド国立州立公園到着」最後の参考資料参照
- 【7】私たちが従事したトレイルの現況調査
- 第13話「レッドウッドのボランティア(野生生物編)」
- 【8】7つの地域事務所
- アラスカ地域、中西部地域、山岳部地域、太平洋及び西部地域、北東部地域、首都地域、南東部地域の7箇所(図4)
- 【9】カンバーランド・ペドモント(Cumberland Piedmont)ネットワークのオフィスが設置されているマンモスケイブ国立公園
- 第7話「さよならマンモスケイブ」米国南東部一帯の広葉樹林地域ネットワーク
- 【10】日本の国立公園におけるブロック制の導入
- H教授の環境行政時評 第7講
<妻の一言>
10月中旬にレッドウッドを出発しましたが、引越しの準備はなかなか大変でした。特に、いろいろ増えてしまった荷物の輸送が悩みの種でした。マンモスケイブからの引越しでもそうでしたが、アメリカには日本のような宅配便はありません。距離が長いせいか料金も高く、取り扱いも乱暴です。また、何といっても期日指定配達ができないのが困りました。大陸横断に1ヶ月ほどかかる私たちより荷物の方がずっと早く到着してしまうのです。今回の引越しでも、ワシントンDCで大変ご迷惑をおかけしてしまいました。
研修の資料は増える一方でした。レッドウッドにいる間にかなり捨てたようですが、それよりも新しくもらってくる資料の方が多いようでした。そこで、書類以外は思い切って処分することにしました。
事務所の談話室スペースの一画を借りて、生活用品やアウトドア用品のバザーを開くことにしたのです。貯金箱を置くだけの無人販売です。値段は1ドルから10ドルくらいまでにしました。小物から下駄箱のような家具まで日替わりで出品しました。
卓上のバーベキューグリルはあっという間に売れました。ウェットシューズなども意外と早く売れました。机とか靴箱のような大物はなかなか引き取り手がありませんでしたが、売れ残った家具は、ボランティアハウスに寄付することにしました。
収益はそれほどでもありませんでしたが、職場へのお礼の品を購入したり、事務所のあるオリックという集落へ寄付することにしました。
次は車の点検でした。レッドウッドにいる間にすっかり親しくなった修理工場に持ち込んで見ていただきました。いくつか不都合な箇所が見つかり、また入院です。修理後はおかげでエンジンがかなりスムーズに回るようになったような感じがします。これで何とかアメリカを横断することができそうです。
南部オペレーションセンターでは、私たちの研修成果についてプレゼンテーションをさせていただきました。その後、持ち寄りの昼食会(ポットラック)になり、感謝状と記念品を頂きました。記念品はきれいなレッドウッドの写真と真新しいボランティアの帽子です。帽子はわざわざワシントンDCの本部から取り寄せた国際ボランティア用のものだそうです。その上、誕生日が近かった私には何とケーキまで用意されていました。最後に参加者全員で記念写真をとりました。
こうしてレッドウッドでの生活もあっという間に過ぎてしまいましたが、いろいろな方との出会やレッドウッドでの調査からさまざまなことを学ぶことができたように思います。
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(記事・写真:鈴木 渉)
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〜著者プロフィール〜
鈴木 渉
- 1994年環境庁(当時)に採用され、中部山岳国立公園管理事務所(当時)に配属される。
- 許認可申請書の山と格闘する毎日に、自分勝手に描いていた「野山を駆け回り、国立公園の自然を守る」レンジャー生活とのギャップを実感。
- 事務所での勤務態度に問題があったためか以降なかなか現場に出してもらえない「おちこぼれレンジャー」。
- 2年後地球環境関係部署へ異動し、森林保全、砂漠化対策を担当。
- 1997年に京都で開催された国連気候変動枠組み条約COP3(地球温暖化防止京都会議)に参加(ただし雑用係)。
- 国際会議のダイナミックな雰囲気に圧倒され、これをきっかけに海外研修を志望。
- 公園緑地業務(出向)、自然公園での公共事業、遺伝子組換え生物関係の業務などに従事した後、2003年3月より2年間、JICAの海外長期研修員制度によりアメリカ合衆国の国立公園局及び魚類野生生物局で実務研修
- 帰国後は外来生物法の施行や、第3次生物多様性国家戦略の策定、生物多様性条約COP10の開催と生物多様性の広報、民間参画などに携わる。
- その間、仙台にある東北地方環境事務所に異動し、久しぶりに国立公園の保全整備に従事するも1年間で本省に出戻り。
- その後11か月間の生物多様性センター勤務を経て国連大学高等研究所に出向。
- 現在は同研究所内にあるSATOYAMAイニシアティブ国際パートナーシップ事務局に勤務。週末、埼玉県内の里山で畑作ボランティアに参加することが楽しみ。