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アメリカ横断ボランティア紀行

No.020

Issued: 2009.03.18

アラスカへ(その2)

目次
魚類野生生物局リージョン7事務所訪問
アラスカにおける国際協力
国立公園局アラスカ地域事務所
アラスカ地域における国立公園の取り組みと課題
パブリックランドインフォメーションセンター
アンカレッジ歴史芸術博物館
写真1:魚類野生生物局のリージョン7事務所

写真1:魚類野生生物局のリージョン7事務所

 スワードからアンカレッジに戻った次の日は、晴天に恵まれ暖かい1日となった。アラスカでは9月は晩秋だ。
 「前任のNさん、Kさんはどうしていますか?」
 アラスカ地域を管轄する魚類野生生物局のリージョン7事務所でのインタビューは、こんなふうに始まった。
 「今の担当のMさんもがんばってくれています。だけど、日本(環境省)の担当者は早く代わり過ぎますね。顔と名前を覚えて、これからというところで担当者が代わってしまうのはとても残念なことです」
 そういうケントさんは、このアラスカ地域の仕事一筋20年以上。アメリカでもかなり長い。その間、日本側の担当者はどれだけ代わったのだろうか。


魚類野生生物局リージョン7事務所訪問

 魚類野生生物局のリージョン7事務所はアンカレッジの繁華街(ダウンタウン)から少し離れたミッドタウンにある。アラスカと日本の間を渡り鳥が行き来しているため、日本の環境省との関係はとても深い。
 「日本政府と仕事をしていて一番困るのは、職員が2年ごとに異動してしまうことです。物事をうまく進めるためには、信頼関係や人間関係を構築することが重要だと思うのですが、日本のカウンターパートはあっという間に代わってしまう感じがします」
 魚類野生生物局や国立公園局などでは、継続的なプロジェクトの担当者は長期間同じポストにとどまるのが一般的なのだそうだ。インタビューを受けていただいたケントさんは、アラスカの渡り鳥一筋に26年間ものキャリアをもつ。
 日本の公務員は、一般的に2年〜3年の周期で人事異動がまわってくる。早いと1年とちょっとで異動しなければならないこともある。さらに、魚類野生生物局のカウンターパートとなる環境省のポストは、英語が相当堪能でなければ務まらない。限られた人材をやりくりするために、異動時期も不定期になってしまいがちだ。

 もちろん、魚類野生生物局も科学的な調査をすべて自前で行っているわけではない。クリントン政権時代に調査研究業務に関する大幅な組織改編があり、政府機関に所属する生物学や生態学に関する研究者を新しい機関に一元化するという構想が打ち出された。これらの科学担当職員は、紆余曲折を経た結果、最終的には米国地質学調査所(United States Geological Survey:USGS)に所属することになった。
 「この事務所の入っている建物には、USGSのアラスカ生物学センター(Alaska Biological Center)が入っています。魚類野生生物局との人事交流も盛んです」
 魚類野生生物局が、主に保護区の管理業務上必要な調査(survey)及び個体数調査(census)を担当しているのに対し、USGSはより基礎的で詳細な調査・研究を実施している。


アラスカにおける国際協力

 「アラスカは、1つの州が事務所の管理地域と同じという点で、米国内では珍しい地域です。そのため、野生生物行政が地域の政治と結びついてしまいがちです」
 アラスカはロシアと隣接するだけでなく、東アジアや南アメリカなどの国々との間を渡り鳥が往き来している。アラスカに生息する渡り鳥の保護のためには、国際的な協力体制が不可欠だ。
 「渡り鳥の業務を通じて、次第にネットワークを構築することによるメリットに気付くようになりました」
 ベーリング海峡をはさんで隣接しているロシアとは、国は違っても、抱えている問題は共通しているものが多い。国境を越えて協力しあうことにより、問題解決や対策費用の低減につながる。魚類野生生物局全体としても、ここ10〜12年間は国際的なプログラムに力を入れるようになってきているという。
 「例えば、同じような問題を抱える野生生物保護区と『姉妹保護区(sister refuges)』協定を結んでいます。ロシアの姉妹保護区からリーダーとなる職員を招聘してトレーニングを行ったり、ニュージーランドから外来ネズミ駆除の専門家を招聘してアラスカの島嶼部の管理に生かしたりしています」
 ところが、米国政府としては、歴史的にも地理的にも関係の深い南アメリカとのつながりを重視している。そのため、アラスカ独自の国際関係を構築するには、ワシントンDCにある本局に頼るのではなく、地域事務所が主体的に取り組む必要がある。ロシアだけでなく、渡りルートを共有するアジア、オーストラリアなどの太平洋諸国、ユーラシア大陸諸国、北極圏諸国などの国々との関係も重要だ。

 「魚類野生生物局は、『現場独立型の(decentralized)組織』と呼ばれています。こういった事務所独自の取り組みが可能なのも、このようなフレキシブルな組織だからなのでしょう」
 ワシントンD.C.本部の局長に対して報告義務があるのは、地域事務所長のみだ。一般の職員は関係課としか直接連絡することはないそうだ。人事交流も限定的だ。地域事務所職員が本部で勤務する場合には短期派遣(details)がほとんどで、数週間からせいぜい2年間しか勤務しない。人事も完全に独立している。事務所には約200名の職員が勤務しており、地域全体の総職員数は600名にのぼる。
 「地域事務所の経費は、基本的に政府の通常予算(base budget)でまかなわれていますが、最近は、WWF、オーデュボンソサエティーなどからの寄付などによる予算(soft money)も増えてきています」
 こうした追加的な資金が多いことも、地域事務所が高い独立性を持つひとつの要因なのかもしれない。

 今回のインタビューは、渡り鳥をめぐる日米協力の話が主だったので、野生生物保護区における管理業務については、フェアバンクスのユーコンフラット及びアークティック(北極)国立野生生物保護区の管理事務所でお話を伺うことにした。


国立公園局アラスカ地域事務所

 翌日、今度は国立公園局のアラスカ地域事務所を訪問した。事務所は、セキュリティーもしっかりしていて、観光客が訪れるような施設ではない。私服の私たちは少々浮いている。
 インタビューに応じてくれたのは、地域事務所副局長のジュディーさん。ユニフォームではなく、スーツ姿だ。部屋も大きく、私たちが通常働いているレッドウッドの現場とは雰囲気がまったくちがう。「副局長」という役職は相当偉いはずだが、とても気さくに対応していただけた。

写真2:国立公園局アラスカ地域事務所

写真2:国立公園局アラスカ地域事務所

写真3:アラスカ地域事務所副局長のジュディーさんと

写真3:アラスカ地域事務所副局長のジュディーさんと


 「国立公園局の予算は、基本的に公園の利用者数に基づいて配分されています。他の48州と地理的に離れているアラスカ地域には、それほど多くの利用者が来るわけではありません。予算も、他の地域よりずっと少ないんです」
 いくらすばらしい自然環境に恵まれた国立公園を管理していても、人が来なければ管理費用は配分されない。一方で、アラスカのような一つ一つの公園が大きい地域では、管理に人も予算も必要だろう。
 「アラスカで最も利用者数が多い公園はどこだと思いますか?」
 やはり有名なデナリ国立公園だろうか?
 「実はクロンダイクゴールドラッシュ国立歴史公園というところが一番多いんです」
 聞いたことのない名前の公園だが、大型船のクルーズツアーのコースに入っているのがその理由だという。
 クルーズ船は、利用者数を引き上げるためには大きな効果がある一方で、野生生物への影響も懸念されている。
 「クルーズ船の利用が多いグレーシャーベイ国立公園では、自然環境の調査コストをクルーズ船の運行会社が負担しています」
 こうした、利用者へのサービスと自然環境のモニタリングを民間に委ねることにより、管理コストを圧縮しているということだろうか。

○参考1:クロンダイクゴールドラッシュ国立歴史公園(Klondike Gold Rush National Historic Park)

クロンダイクゴールドラッシュ国立歴史公園 位置図

クロンダイクゴールドラッシュ国立歴史公園 位置図

 1976年設立。公園は、1898年に起きたゴールドラッシュを象徴する歴史的建築物や展示、トレイル(White Pass Trail)などから構成されている。スキャグウェイ(Skagway)には、ビジターセンターの他、修復された建築物が13棟ある。面積は13,191エーカー(約5,340ヘクタール)だが、そのうち連邦政府所有地は2,419エーカー(約980ヘクタール)のみ。



 「そもそも、アラスカではまだ国立公園の重要性が十分認識されていません。例えば、キーナイフィヨルド国立公園では、隣接するスワードの住民の間に、公園への根強い反感が残っています」
 スワードは、かつてはアラスカの重要な玄関口として、石炭の積み出しや、金採掘のための移住者が上陸してきた。はるか内陸部のフェアバンクスに至る鉄道の起点でもある。しかし物流や旅客システムの変化に伴って、スワードの重要性は大幅に低下し、20年ほど前には、この町の収入減はほとんど何もなくなってしまったそうだ。
 「現在は、氷河の遊覧クルーズにより観光拠点として復活していますが、その恩恵を受けていない人々にとっては、国立公園の魅力は実感されていません」
 これはとても意外なことだった。

 次に、今回の調査の大きな目的である、国立公園の利用規制について伺うことにした。
 「利用者規制の成功事例は、やはりデナリ国立公園の自家用車の乗り入れ規制でしょうね。1970年代にいち早く自家用車の利用を全面禁止したことが成功の要因だと思います」
 一方、失敗した事例もあるそうだ。
 「カトマイ国立公園では、1日250人を上限とする利用者規制を導入しようとしたのですが、結果的にだめでした。政治的な圧力などもあったのです」
 アラスカでも、利用規制を新たに導入したり、これまでの規制を変更したりするのは決して簡単なことではない。
 「他の地域では、シャトルバスによる利用者誘導や自家用車台数の抑制を行っている公園もあります。こうした方法が現実的なのではないでしょうか」

アラスカ地域における国立公園の取り組みと課題

 「アラスカ地域事務所では、ベリンジア国際遺産公園(Beringia International Heritage Park)構想を打ち出しています」
 この構想は、ベーリング海峡をはさんで隣接するロシア側と米国側の国立公園を包括的に国際公園化する取り組みだ。すでに、ゴルバチョフ元ロシア大統領とブッシュ元米大統領との間で91年に合意されている。まだ国際公園の設立には至っていないが、両国間で公園設立の具体的な作業が行われている【1】
 「この地域は、国境が引かれるずっと前から、同一の文化圏を構成していました。現在でも、原住民の豊かな文化が残されています。この公園の設立により、国境が分断している人々を再統一(reunite)したいと考えています」
 ところが、ロシア側の担当官が頻繁に代わり、なかなか連絡が続かないのが課題だそうだ。

○参考2:ベリンジアン遺産国際公園プログラム

 「アラスカの保護地域行政にもっとも大きな影響を与えたのが、1980年のアラスカ重要国有地保全法(ANILCA:アニルカ)でしょう。この法律により多くの国立公園、野生生物保護区が設立されましたが、一方で、この法律の制定には、大変多くの妥協が必要でした」
 例えば、国立公園内であっても、原住民の生活のための狩りや地域住民が行ってきた「伝統的な行為」、既着手行為の継続などが可能となっている。
 「この法律の制定された1980年を境に、それ以前の公園をOld Parks、それ以降の公園をNew Parksとして区別しています」
 デナリ国立公園でも、ANILCA法以前に旧マウント・マッキンリー国立公園として指定されていた核心部分と、1980年に追加された国立公園部分や保護区(preserve)部分では、大きく管理方法が異なる。
 「新しい公園区域は、常に原住民などによる利用との調整が必要です」
 ジュディーさんの話はいずれも率直で、論点が明快だった。また、これからの取材のヒントももらうことができた。


パブリックランドインフォメーションセンター

写真4:アンカレッジのパブリックインフォメーションセンターの近くにある観光案内所の前で

写真4:アンカレッジのパブリックインフォメーションセンターの近くにある観光案内所の前で

 パブリックランドインフォメーションセンターは、アンカレッジのダウンタウンにある。周辺は草屋根の観光案内所やみやげ屋が軒を連ねる繁華街だ。このセンターは、ANILCA法を契機として設立されたビジターセンターだ。「パブリックランド」とは、国立公園や国立野生生物保護区などの国が管理する土地を指している。施設の運営は、国立公園局、野生生物局、森林局、公有地管理局など国有地を管理する各機関により共同で行われている【2】

 「これなんていう動物かしら」
 インフォメーションセンターに置かれた剥製は、ジャコウウシのものだった。牛のような大きな体を長い毛が覆っている。頭にへばりつくように生えている角は、頭頂から下の方に伸び、先端が少しだけ前を向いている。ジャコウウシは、かつて乱獲により絶滅の危機に瀕していたが、現在は個体数も増えてきているそうだ。ほかにも、ムースやカリブーの剥製が展示されている。
 このセンターには、アラスカの公有地に関するたくさんの資料が備えられている。デナリ国立公園のような有名なところばかりではなく、一般の観光客がほとんど足を運ばないような、遠く隔たった保護区の資料などもある。
 レセプションの職員の方にお願いして、先ほどジュディーさんから伺ったANILCA法について伺うことにした。
 「ANILCA法ですか? 確かファイルがあったと思います」
 ほどなく1冊のバインダーが書庫から出てきた。法律が印刷された紙は少し黄ばんでいる。ファイルは原文だけで、法律を解説したようなパンフレットなどはないようだった。法律についていくつか質問してみたが、通り一遍の答えしか返ってこなかった。


写真5:ANILCA法のファイル

写真5:ANILCA法のファイル

 この法律の関式な名称は、「アラスカ重要国有地保全法(Alaska National Interest Land Conservation Act of 1980)」。その頭文字をとって「ANILCA」(アニルカ)と呼ばれている。公有地管理局が管理していたアラスカの国有地には、国立公園や野生生物保護区としても遜色ないような、すばらしい自然景観地や貴重な野生生物の生息地が存在していた。ところが、アラスカには石油など豊富な資源が埋蔵されていることが知られており、保全と開発の利害が競合していた。国有地は用途や管理主体が決められておらず、事実上、開発も保護区の指定も棚上げされていた。これが、アラスカに残された「最後のフロンティア」だった。
 この法律は、こうした利害を調整し、土地の所有や管理主体を定めるものだ。結果として、合計1億430万エーカー(約4,220万ヘクタール)にも上る国立公園や保護区が誕生した。アラスカの自然環境の保全上、もっとも画期的な法律のひとつといわれている。
 当然ながら、この法律の制定には、地元や企業の利益を代表する開発派と、全国的な自然保護団体などを代表する保全派の対立があったはずだ。またアメリカ全体における国立公園の管理に少なからず影響を与えたはずである。その背景について調べることができれば、今回のアラスカ研修の成果のひとつとなるだろう。
 ところが、不思議なことに、アラスカに来てみてもこれらの経緯に関する説明をほとんど目にしない。豊かな自然や水産物に関する展示はあちこちで見かけるものの、それを守っている仕組みや歴史に関する資料や展示はほとんどなかった。


アンカレッジ歴史芸術博物館

 アンカレッジ歴史芸術博物館(Anchorage Museum of History and Art)は、近代的な鉄筋コンクリート2階建ての大きな建物だ。アンカレッジに来てからインタビュー続きだったので、息抜きもかねて博物館でも覗いてみることにした。場所は、ちょうど午前中のインタビューで訪問した、国立公園局アラスカ地域事務所の裏手の方にあった。

 建物を入ると、まず正面に大きなトーテムポールが立っている。それも、小学校の校庭にあるような杉丸太の細いものとは大違いだ。アラスカにもこんな太い材木があったのかと思うほど巨大で、吹き抜けのホールの真ん中に聳え立っている。ポールの頂きには大きな鷲のような鳥が彫り出されている。
 1階の芸術作品の展示もよかったが、2階のアラスカの歴史に関する展示は圧巻だった。ヨーロッパ人のアラスカ探検、アリュート人の家や生活、石油開発の歴史などが、豊富な実物展示によって解説されていた。また、アラスカの歴史、文化、産業などに関する具体的なデータが展示されていた。正直なところ、ちょっとした国立公園のビジターセンターなどとは比べ物にならないほどの収穫があった。日本語で書かれたアラスカの歴史資料も配布されていて、これも大変貴重な資料になった(文末の参考3)。

 「これ金の塊じゃない?」
 「ナゲット」と書かれた金色の塊は、おそらく本物だろう。こんなこぶし大の金が出てきたら、やっぱり「金の虜」になってしまうだろう。アラスカのゴールドラッシュが急に身近に感じられてしまう。隣には、石油、石炭、銅の塊なども展示されている。
 意外だったのは、1920年代のアンカレッジの生活の様子に関する展示だ。木造の家には、小さな部屋が2間しかない。ダイニングキッチンではご婦人が編み物をしている。日本の1DKアパートより狭く、天井も低い。家の中の家財からもごくごく質素な暮らしがうかがわれる。アメリカ人も、つい100年ほど前はこの程度の生活レベルだったわけだ。それでも、幸せそうな雰囲気が伝わってくる。

 アラスカは日本との関係も深い。北海道からの距離が近いこともあり、第2次世界大戦では、アリューシャン列島が日米の戦場になっていた。戦闘のためにアラスカに配属されたアメリカ軍兵士の展示もある。
 また、展示によれば、アラスカ州の経済活動は、連邦政府及び第一次産業が生産額のほとんどを占める(表1)。特にANILCA法制定後、石油生産が軌道に乗り始めると、経済規模が4倍に急増し、活動の約半分は石油・ガス関連が占めることとなる。意外だったのは、観光産業の占める割合が1〜2%程度と低いこと。これだけ豊かな自然があっても、地域の人々にとって経済的な恩恵はほとんどないということだ。
 「石油開発か、自然保護か」という選択を迫られた場合、アラスカ州が下す判断は目に見えているように思える。
 そのような状況下でANILCA法が制定され、多くの保護区が新設されたことはとても意味深いことなのではないだろうか。

【表1】アラスカの経済活動(博物館の展示から転載)
  1963
(大規模油田発見前)
1981
(ANILCA制定後)
1996
総額 56億ドル 233億ドル 259億ドル
連邦政府 25% 9% 7%
州・地方自治体 9% 8% 7%
石油・ガス 2% 47% 36%
漁業・林業 17% 5% 7%
観光業 1% 1% 2%
その他(金融業など) 48% 30% 38%

 土地所有に関する展示もあった。現在のアラスカ州における土地所有は、ほぼ6割が連邦政府所有地だ(表2)。その約半分強を、国立公園局と魚類野生生物局が管理している。

【表2】アラスカの土地所有(博物館の展示から転載)
連邦政府 59.9%(魚類野生生物局と国立公園局が半分強を管理)
州政府 27.7%
私有地 12.4%

 この博物館での収穫は、何と言っても石油開発の歴史に関する展示だった。石油開発と保護区設立との関係が、この博物館で見つけた数枚の展示パネルによってようやく結びついた。

写真6:パイプラインに関する展示パネル

写真6:パイプラインに関する展示パネル

写真7:アラスカの石油開発と自然保護区設立に関する展示パネル

写真7:アラスカの石油開発と自然保護区設立に関する展示パネル


 アラスカの石油開発にとって大きな鍵となったのは、パイプラインだった。アラスカの北部、北極海に面した地域には、豊富な石油が埋蔵されていると考えられていた。ところが、この石油が発見され採掘できたとしても、北極海は凍結していて、海路を使って積み出すことができない。商業ベースで石油を生産するためには、何としても南のアラスカ湾にある不凍港まで運ばなければならない。道もないアラスカでは、パイプラインの建設がもっとも現実的だ。ところが、パイプラインは総延長が長いため、様々な課題を抱えていた。
 特に大きな争点となったのが、アラスカ原住民が権利を主張していた土地を横断しなければならないことだ。油田を開発するためには、この原住民の権利の認定、すなわち、権利をどの範囲で認め、どのように清算するか、という問題が避けて通れなかった。
 こうして、1971年にアラスカ原住民法(Alaska Native Claims Settlement Act:ANCSA)が成立した。この法律により、原住民の主張していた権利が認められ、原住民の団体に対し、4,400万エーカー(約1,780万へクタール)の土地と9億6,250万ドルの資金が提供されることとなった。
 また、この法律には、土壇場でいくつかの条項が追加されていた。そのひとつが、残された公有地の配分の決定に関する条項だった。この条項に基づき、連邦政府は1978年までに公有地の配分を決定しなければならなくなった。
 公有地の配分で焦点になったのが、資源開発を禁止または抑制する保護区の設立だった。当時政権を握っていたカーター大統領が、環境や人権・福祉については、一般的に共和党より積極的な政策を取る民主党出身だったことに加えて、1970年代に入ると環境保護運動が高まりを見せ、議会もこうした動きを無視することができなくなっていた。
 しかし保護区の設立については、開発派と保護派の主張の隔たりが大きく、議論はなかなか進展しなかった。当時、広大なアラスカには、マウント・マッキンリー国立公園(後のデナリ国立公園)と、3つの国立記念物公園(シトカ(Sitka)、カトマイ、及びグレーシャーベイ)しか存在していなかった。カーター大統領はこうした状況に危惧を抱き、1978年に遺物保存法(Antiquities Act of 1906)に基づいて総面積22万平方キロメートルにおよぶ17の国立記念物公園を設立した。
 この遺物保存法には、大統領が議会の議決を経ずに布告によって公園が設立できる規定がある。ただ、議会軽視の批判もあって、その規定の適用には大きなリスクが伴う。
 カーター大統領の決断は、「おそらく、この法律に署名したテオドア・ルーズベルト大統領すら想像もしなかった規模」のものであった。つまり、この規定をこうした広大な自然地の保護のために、緊急避難的に適用することは前例がなかったのだ。この決断については賛否両論あったものの、結果として、アラスカの自然地の多くが保護区として守られることになったという意味では英断だったのではないだろうか。これは、地域開発や産業界の利害に敏感な共和党政権ではなく、リベラルで自然保護区の設立に前向きな民主党政権だからこその快挙ともいえる。
 ところが、こうした思い切った政策を打ち出したカーター大統領に対しては、世論の風当たりも強く、結果として次期大統領選挙に敗れてしまうことになる。次期大統領に選出された共和党出身のレーガン氏は、アラスカについては開発派と考えられていた。カーター政権としては、何としても残された在任期間中に保護区設立を確実なものにしたかった。そんな政権側の足元をみる開発側との攻防は、まさに手に汗握る展開となる。
 こうして、結果的には大幅な妥協を余儀なくされた内容ではあったが、ANILCA法はカーター大統領により1980年12月2日に制定された。この法律によって、4,700万エーカー(約1,900万ヘクタール)の国立公園、国立記念物及び国立保護区、5,380万エーカー(約2,180万ヘクタール)の野生生物保護区、そして350万エーカー(約140万ヘクタール)のレクリエーションエリアと原生河川回廊(コリドー)が新設もしくは拡張された。

 ANILCAによってアラスカの国有地の保護が大きな前進を遂げた一方、同法は、新設された保護区の区域内において、原住民による「伝統的に行われてきた行為(subsistence)」(生活のための狩猟行為等)を容認した。また、北極国立野生生物区域(Arctic National Wildlife Range)では、拡張区域に石油の埋蔵区域が含まれ、その開発の可否はあいまいなままとされていた。その他、同法には大変複雑な規定が多く、その後の保護区管理に様々な混乱を招く結果となった。
 いずれにしろ、この法律により、アメリカに残された「最後のフロンティア」は名実ともに消え失せたが、その多くは国立公園や野生生物保護区などに姿を変えて、将来世代に引き継がれることになった。

 ところで、こうしたカーター大統領の成し遂げたアラスカの保護区設立の功績は大きいはずだが、なぜかそれに関する解説を目にすることはない。その後クリントン大統領が選出されるまで続く共和党政権に遠慮したのか、それとも、こうした痛みを伴う政策は、国民の支持が得られにくいからなのだろうか。いずれにしろ、アラスカの保護区設立という快挙は、もう少しあちこちで称えられてもいいように思える。

○参考3:アラスカ年表(アンカレッジ歴史・美術館「アラスカ展示室資料」などを基に作成)

1648年
ロシアの探検家デゼニエフがベーリング海峡を横断。
1725年
ピョートル大帝の命を受けたデンマーク人ヴィトス・ベーリングがアラスカ沿岸探検に出発。
1740年代
ロシア人による毛皮猟がアリューシャン列島で行われる。
1780年代
毛皮貿易が急成長。
1799年
ロシア・アメリカ商会が設立され、アラスカにおける毛皮貿易を独占。
1840年代
1700年代の初めには約1万人だったアリュート人の人口が、天然痘や虐待、飢餓などにより4千人に減少。密漁や乱獲により毛皮猟が下火となる。
1867年
ロシアがアメリカにアラスカを720万ドルで売却。
1879年
ジョン・ミュアーがアラスカを訪れる。同氏の影響で自然保護の機運が生まれる。
1880年
現在のジュノー近郊で金が発見される。
1898年
クロンダイクゴールドラッシュが起こり、2万人もの人々がアラスカやカナダ西部に押し寄せる。
1914〜1923年
アラスカ鉄道建設。
1942年
日本軍がキスカ島とアッツ島を占領。
1959年
アラスカ州が49番目の州に昇格(それまでは準州)。
1966年
原住民の権利を守るために、連邦政府により土地所有権凍結が言い渡される。
1968年
プルードー湾で大規模な油田が発見される。
1971年
アラスカ原住民請求権解決法(ANCSA)が制定され、これにより4,400万エーカー(約1,780万ヘクタール)の土地と約10億ドルの補償金が原住民に支給される。
1977年
トランスアラスカ石油パイプラインが完成。
1978年
カーター大統領により、17箇所の新たな国立記念物が指定され、新たに5,600万エーカー(約2,270万ヘクタール)の土地が保護されることとなった。この指定は、アラスカ重要公有地法(ANILCA)制定まで効力を有していた。
1980年
アラスカ重要国有地保全法(ANILCA)制定。アラスカ州は、連邦所有地のうち1億300万エーカー(約4,170万ヘクタール)を州有地とすることが可能となった。

※今回の原稿執筆には、上岡克己著「アメリカの国立公園」、Walter R. Borneman著「Alaska: Saga of a bold land」を参考にさせていただきました。

【1】ロシア側と米国側の国立公園
米国側の公園は、ベーリング・ランドブリッジ国立保護区
Bering Land Bridge National Preserve(国立公園局ウェブサイト)
【2】パブリックランドインフォメーションセンター
パブリックランドビジターセンター(Alaska Public Lands Information Center)は、このアンカレッジのセンターの他、フェアバンクス、ケチカン(Ketchikan)、そしてトク(Tok)の3箇所にも設置されている。

<妻の一言>

 現地調査に出かける時、宿泊先の手配や荷物の準備などは大抵私の担当でした。今回の訪問地であるアラスカは、観光地としてはとても有名ですが気象条件も厳しいということで、いくつか注意していたことがありました。
 一つ目は、アラスカの観光シーズンは短く、観光客が集中するということです。宿泊先やガイドツアーなどはなるべく早く予約する必要がありました。他の大陸48州に比べて、料金もやはり高目です。また、宿泊先などの予約にも手間取ることがありました。アラスカでは大手チェーンのモーテルなどは少なく、小規模なホテル、個人経営のロッジやB&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)などが多いので、インターネットで予約できないこともありました。そんな時は、電話やFAXでやりとりをしなければなりません。
 二つ目は寒さ対策でした。私たちが訪れたのは9月上旬でしたが、フェアバンクスなどでは雪に見舞われることもありました。室内はセントラルヒーティングでどこも暖かいので、服装は重ね着にしてこまめに調節できるようにしました。早朝、国立公園内で野生生物を観察するような場合には、長い間じっと立ち止まっていなければなりませんので、手や足先の寒さ対策が必要です。手袋も、薄手のものと厚手のものを重ねたり、貼るカイロを足先に貼ったりしました。帽子や耳あても持っていきましたが、とても重宝しました。

 厳しい寒さは電気製品にも影響しました。バッテリーなどは寒さですぐに使えなくなってしまいました。そのため、コートのポケットにカイロを入れ、バッテリーを温めておくとかなり持ちがよくなりました。
 最後は車のガソリンです。アラスカではレンタカーを借りて移動していましたが、市街地以外ではガソリンスタンドが少ないので、早め早めに給油するようにしていました。これだけ大量に石油が出るアラスカですが、税金の高いカリフォルニアと比べてもガソリンの値段が1〜2割くらい高かったのは意外でした。


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(記事・写真:鈴木 渉)

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〜著者プロフィール〜

鈴木 渉
  • 1994年環境庁(当時)に採用され、中部山岳国立公園管理事務所(当時)に配属される。
  • 許認可申請書の山と格闘する毎日に、自分勝手に描いていた「野山を駆け回り、国立公園の自然を守る」レンジャー生活とのギャップを実感。
  • 事務所での勤務態度に問題があったためか以降なかなか現場に出してもらえない「おちこぼれレンジャー」。
  • 2年後地球環境関係部署へ異動し、森林保全、砂漠化対策を担当。
  • 1997年に京都で開催された国連気候変動枠組み条約COP3(地球温暖化防止京都会議)に参加(ただし雑用係)。
  • 国際会議のダイナミックな雰囲気に圧倒され、これをきっかけに海外研修を志望。
  • 公園緑地業務(出向)、自然公園での公共事業、遺伝子組換え生物関係の業務などに従事した後、2003年3月より2年間、JICAの海外長期研修員制度によりアメリカ合衆国の国立公園局及び魚類野生生物局で実務研修
  • 帰国後は外来生物法の施行や、第3次生物多様性国家戦略の策定、生物多様性条約COP10の開催と生物多様性の広報、民間参画などに携わる。
  • その間、仙台にある東北地方環境事務所に異動し、久しぶりに国立公園の保全整備に従事するも1年間で本省に出戻り。
  • その後11か月間の生物多様性センター勤務を経て国連大学高等研究所に出向。
  • 現在は同研究所内にあるSATOYAMAイニシアティブ国際パートナーシップ事務局に勤務。週末、埼玉県内の里山で畑作ボランティアに参加することが楽しみ。