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アメリカ横断ボランティア紀行

No.011

Issued: 2007.06.28

レッドウッド国立州立公園到着

目次
レッドウッド国立州立公園へ向けて
フォートブラッグ
フンボルトレッドウッズ州立公園
ユーレカ到着
ユーレカ周辺のレッドウッド伐採の歴史
歴史的な町並みと木こり食堂
レッドウッド国立州立公園到着
ボランティアハウス入居
パン焼き機購入
太平洋の波に浸食された海岸線は荒々しい風景をつくりだす。

太平洋の波に浸食された海岸線は荒々しい風景をつくりだす。

 サンフランシスコで大量の生活物資や食料を買い込み、次の研修地、レッドウッド国立州立公園を目指す。太平洋岸に沿ってカリフォルニア州道1号線をゆっくり北上していくと、これまで走ってきた内陸部とは全く違う風景が広がっていた。レッドウッド国立州立公園のゲートシティーであるアルカタという町までは1泊2日ほどの行程だ。


レッドウッド国立州立公園へ向けて

ポイントレイズ国立海岸のビジターセンター

ポイントレイズ国立海岸のビジターセンター

 ミュア・ウッズ国立記念物公園を出て、しばらくは海沿いの曲がりくねった道が続く。途中、ポイントレイズ国立海岸のビジターセンターに立ち寄る。この国立公園局の管理する公園地は、乗馬やトレッキングなどのレクリエーションも盛んで、駐車場には馬を運ぶトレーラーが何台も停まっていた。素晴らしい原生的な海岸線が残されているそうだが、時間がないので残念ながら先を急ぐことにした。


太平洋の眺め。道路わきに車を停めるとすぐにこのような風景が広がっている。

太平洋の眺め。道路わきに車を停めるとすぐにこのような風景が広がっている。

 道はしばしば海沿いの海食崖上に出る。サンフランシスコの周辺とはだいぶ趣が異なる。この地域の海岸線は、太平洋プレートと北米大陸プレートが接しているために、現在もかなりのスピードで隆起が続いている。それを波と太平洋から運ばれる大量の降雨が侵食する。その景観は荒々しく壮観だ。沿道には小さな集落が点在するのみで、経済的には貧しそうだ。米国東部のケンタッキー州などに比べると、建物はずっと小さい。しかしながら、この雨の多い、湿潤で荒々しい自然は、アメリカの持つ「自由」や「自然の豊かさ」のようなものを連想させてくれる。思わず、目もくらむような海食崖上に車を停めて、その風景に見とれてしまう。


ポイントレイズ国立海岸の入口標識

ポイントレイズ国立海岸の入口標識

○ポイントレイズ国立海岸(Point Reyes National Seashore)

 ポイントレイズ国立海岸は、1962年9月に、当時のジョン・F・ケネディー大統領によって設立された。その後1976年にウィルダネス地域が指定された。1988年にはカリフォルニア州の中央カリフォルニア海岸生物圏保護区の一部として指定されている。年間利用者数は207万人(2006年)。面積は28,761ヘクタール(うち、ウィルダネス地域はその約47%に相当する13,506ヘクタール)で、ハイキングトレイルの延長は240キロメートルにも及ぶ。
 ポイントレイズ国立海岸には、太平洋の波浪によって浸食された海食崖、原生的な砂浜、草地、草に覆われた丘陵地帯、森林に覆われた尾根など多様な地形があり、1,000種を越える動植物種が生息・生育する。毎年春には7,000頭ものゼニガタアザラシが見られるが、これは島嶼部を除くカリフォルニア州で繁殖する個体の約20%に相当する。また、3月及び4月には、コククジラが沿岸を北上する。国立公園局のホームページでは、シロチドリの繁殖地を守るボランティアなどの募集が行われている。

フォートブラッグ

 州道1号線をひたすら北上する。ポイントレイズ国立海岸を過ぎたあたりから道路のカーブも緩やかになってきた。途中パンなどで昼食をとりながら、午後3時ごろにフォートブラッグ(Fort Bragg)に到着。ここから、レッドウッド国立州立公園のゲートシティー、ユーレカ(Eureka:「ユリーカ」と発音される)、アルカタ(Arcata:「アーケイダ」と発音される)までは1日弱の行程。ようやく、マンモスケイブ国立公園を出発してから20日以上の引越し生活も終わる。
 そんな安堵感が一気に吹き飛んだのは夕食時だった。食べ終わってデンタルフロスを使っていたところ、またもや奥歯の詰め物がとれてしまったのだ。
 「いつも忙しい時に歯がおかしくなるね」
 と妻も苦笑している。到着早々、また歯医者に行かなければならない。


フンボルトレッドウッズ州立公園

アベニュー・オブ・ジャイアント

アベニュー・オブ・ジャイアント

 フォートブラッグから内陸部に入り、101号線を北上する。この道路はインターステートではないが、サービスエリアも設置されている高規格道路だ。この101号線沿線にはフンボルトレッドウッズ州立公園が広がっている。公園内には、「アベニュー・オブ・ジャイアント(巨木の並木道)」と呼ばれるかつての幹線道路が残っている。幹線道路といっても片側一車線の細い道路だ。原生林のまっただ中を通っているので、巨木の間を縫うように右に左に曲がりくねっている。路肩に車を停めてみると、林床には湿った落葉が厚く積もっている。樹皮は一見分厚いフェルトのようだが、触ってみると思いのほか硬く湿っている。幹は私たちの車の幅よりも太い。枝にさえぎられ梢は見えない。樹冠が閉じていて、林の中は薄暗く静かだ。

 現在残されているレッドウッド林の約半分は、こうした州立公園とレッドウッド国立公園によって守られている。その他はほぼ切りつくされてしまっているそうだ。州立公園のビジターセンターには、州立公園の職員が1人、カウンターに座っていた。ビジターは私たちの他は2〜3人、レッドウッドや野生生物の展示に見入っている。展示はレッドウッド伐採の歴史やそのために引き起こされた大洪水、それをきっかけに起きた公園設立の動き、などがわかりやすく紹介されている。ビジターセンターの展示の特徴は、自然と人間とのつながりを描き出していることだ。ネイティブアメリカンからはじまり、人間がどのようにこの地域のレッドウッドの森と関わり、自然がどう変化したのか、そしてなぜ保護区が必要なのか、というメッセージが直接伝わってくる。アメリカの自然公園は、文化財も同じ管理下に置かれているため、むしろこうした展示内容が自然なのだ。


フンボルトレッドウッズ州立公園のビジターセンター

フンボルトレッドウッズ州立公園のビジターセンター


 「これおもしろいね。樹に窓がついてる」
 公園の区域を出ると、路傍にお土産屋などがある。中には、天然の木のウロを「活用」したものもある。お土産品はレッドウッドを使った木工品が多い。ほとんどが荒削りなものばかりだ。レッドウッドは日本で言えば屋久杉や古代ヒノキのようなものなのだから、うまく加工すれば外国人向けのお土産になりそうでもある。一方で、そのいかにも無骨で素朴な雰囲気は気持ちを和ませてくれる。この近くには、車でレッドウッドの根元をくぐる「ドライブスルートゥリー」などというものもあるそうだ。

レッドウッドのウロを活用した「家」。土産物屋のアトラクションとして活躍している。

レッドウッドのウロを活用した「家」。土産物屋のアトラクションとして活躍している。

レッドウッドの丸太を切り抜いて作られた「ワンログハウス」。

レッドウッドの丸太を切り抜いて作られた「ワンログハウス」。

ワンログハウスの内部。ベッドやキッチンが作りつけられている。

ワンログハウスの内部。ベッドやキッチンが作りつけられている。


ユーレカ到着

 ユーレカにはその日の夕方に到着した。人口約2万6千人(2005年)、かつてレッドウッドの伐採製材業で繁栄した港町だ。となりのアルカタとともにこの地域の中核的な都市である。現在も、道路脇には大きな材木置場や製材された板材の山が点在している。中型のプロペラ機がサンフランシスコやオレゴン州(ポートランド)との間で定期的に運航されている。
 この太平洋に面したカリフォルニア州の北のはずれ(英語ではNorth Coast California)には、1800年台の半ばまでほとんど白人が居住しておらず、ネイティブアメリカンが昔のままの暮らしを営んでいた。その主な理由は、険しい地形と、サンフランシスコからもかなり離れた僻地だったことだ。ところが、ゴールドラッシュが劇的な変化をもたらした。


ユーレカ周辺のレッドウッド伐採の歴史

今も当時の雰囲気を残しているユーレカの港

今も当時の雰囲気を残しているユーレカの港

 1848年、付近に金鉱が発見されるとすぐに集落が形成された。当時はまだ道路がなかったため、人間や物資はユーレカなどの港に船で運搬されたそうだ。ところが、金の埋蔵量は予想よりはるかに少なかったために、その代わりとしてレッドウッドの伐採が開始された。

 1878年「木材及び土石法(Timber and Stone Act)」が成立すると、160エーカー(約0.6平方キロメートル)の国有地が1エーカー当たり2.5ドル(約300円)という格安の値段で払い下げられることになった。これに目をつけたスコットランドのエジンバラ市を拠点とする投資家が、水夫や伐採従事者を動員して所有権を確保し、大規模な伐採を開始した。この方法は米国内の資本家の間にも広がっていった。
 1914年、サンフランシスコまでの陸路が開通すると、伐採の規模は急激に拡大していった。
 こうしたレッドウッドの大規模伐採に危惧を抱いた有志が「レッドウッド保護連盟(Save the Redwoods League)」を設立、大々的な募金活動が展開され、多くの貴重なレッドウッド林が買収された。これらの森林は、現在カリフォルニア州立公園として保護されている(文末囲みの「レッドウッド国立州立公園の歴史概観」参照)。

 ところが、それ以降も伐採は続き、さらに大規模に、さらに奥地へと進んでいった。上流部での大規模な伐採により、下流域の集落はたびたび洪水に見舞われるようになった。1960年代以降の環境運動の高まりに応じ、1968年にレッドウッド国立公園が設立されたが、伐採業者の強力な圧力などにより公園面積は大幅に縮小され、流域を構成する重要な原生林の多くも区域から除外されてしまった。結局伐採はその後10年間も続き、1978年にレッドウッド国立公園の区域が拡大されたことでようやくその幕を閉じた。その頃までには、港から近く運搬も容易な手ごろな原生林はほぼ切りつくされてしまっており、伐採業自体もすでに廃れていたようだ。伐採業者は、国立公園予定地の原生林を切れるだけ切っておいて、当時最高の市場価格で山林を政府に売払って退却した。
 これらの二次林地帯に入ると、切り損ねて谷底に転がった丸太などが今もそのままに放置されている。ワイヤーやトラックも捨てられ、本当にひどいありさまだ。
 生活の基盤を根こそぎ剥奪されたネイティブアメリカンや、頻発する洪水被害の続いた入植者の集落など含め、この地域には、レッドウッド伐採による負の遺産だけが残されているように見える。


ピーナッツの形に似せたレッドウッドの丸太がレッドウッド国立州立公園に隣接するガソリンスタンドの敷地に横たわっている。レッドウッド国立公園の設立の反対派が抗議のために製作し、首都ワシントンDCまでトレーラーで運搬したものだ。現在も、地元住民の一部には国立公園設立以来のわだかまりが残っている。なお、「ピーナッツ」の形は、レッドウッド国立公園の拡張を事実上決定した当時のカーター大統領が、ピーナッツ栽培農家だったことにちなんでいるそうだ。

ピーナッツの形に似せたレッドウッドの丸太がレッドウッド国立州立公園に隣接するガソリンスタンドの敷地に横たわっている。レッドウッド国立公園の設立の反対派が抗議のために製作し、首都ワシントンDCまでトレーラーで運搬したものだ。現在も、地元住民の一部には国立公園設立以来のわだかまりが残っている。なお、「ピーナッツ」の形は、レッドウッド国立公園の拡張を事実上決定した当時のカーター大統領が、ピーナッツ栽培農家だったことにちなんでいるそうだ。


歴史的な町並みと木こり食堂

ユーレカの歴史地区の中でも威容を誇るのが「カーソン・マンション(CARSON MANSION)」だ。丈夫なレッドウッドで作られた建築物は現在も当時のままの姿を保っている。

ユーレカの歴史地区の中でも威容を誇るのが「カーソン・マンション(CARSON MANSION)」だ。丈夫なレッドウッドで作られた建築物は現在も当時のままの姿を保っている。

 こうして白人の入植からわずか100年余りでレッドウッドの原生林は切り尽くされ、地域の経済は急速に衰退した。あっけなく没落した地域経済が残したものの中には、伐採ブームに沸いた当時のビクトリア調の豪邸のあつまる一角もある。ユーレカ港の近くに当時のままの姿をとどめている、極めて耐久性の高いレッドウッドで建築された木造建築物の並んでいる様は、当時の経済発展の様子を物語っている。

 ところで、このユーレカには、昔ながらの「木こり食堂」が残っている。最盛期には町のあちこちにあったそうだが、現在は観光用の食堂が1軒残るのみだ。一日5,000キロカロリー以上を必要とした伐採労働者の胃袋をすばやく満たすために、すべての料理は大皿に盛られ、おかわりも自由だ。店の一画には伐採用のチェーンソーなどが展示されている。今でもこの町の人々は昔の繁栄の記憶を大切にしている。

 宿泊は隣町のアルカタにした。ちょうどアメリカの祭日(マーティンルーサーキング・デー)と重なっていたため、国立公園管理事務所に行くのは翌日に回し【1】、生活物資や当面の食料を買い込み早めにホテルで休むことにした。
 このカリフォルニア北部沿岸地域は、同じ州とはいえ南部の大都市に比べ貧しい。食料を始め、物価も決して安くはない。町も、林業、製材業同様にあまり活気があるとはいえない。人もどこか控えめで、走っている車に維持費がかさむアメ車はあまり見当たらず、古い小型の日本車が多い。その中で、私たちの99年式の真っ赤なポンティアックはやたらと目立つ。
 町のビジターセンターでもらったガイドによると、この辺りはタラやカサゴ、アイナメ、カニなどが釣れるという。久しぶりに煮付けでも食べたいところだ。


レッドウッド国立州立公園到着

小さな港町のトリニダッド。展望台からは入り江が一望できる。

小さな港町のトリニダッド。展望台からは入り江が一望できる。

 翌日、国立公園管理事務所に「初出勤」するためホテルを出発した。約束の時間は午後2時。午前中時間があったので、ユーレカに戻って、日本米を売っている店を探す。電話帳に載っていた1軒目の店は鍵がかかっていた。やむなくもう1軒のオリエンタルショップに向かう。東南アジアから来たというモン族の経営する店は開いていて、日本米によく似た中粒米が安かった。20キロのものを購入、これでしばらく安心できる。
 お米を積み込み、一路レッドウッドを目指す。道は徐々に細くなり上り下りがきつくなる。ところどころ大きなレッドウッドの木々が並んでいるが、道の両側に広がる森のほとんどはダグラスモミの二次林だ。
 途中、トリニダッドという小さな港町に立ち寄り、お昼のサンドイッチを食べる。小さな赤い灯台のある展望台からは、足元の入り江と小さな漁船が浮かんでいるのが見える。この辺りは本当にきれいなところが多い。

 またしばらく車で走ると、今度は大きな湿原が現れる。ラグーンだ。この地域の豊かな降雨は、いくつもの小河川となって海へ下り、河口部に大小の汽水湖をつくる。そんなラグーンをいくつか通り過ぎると、国立州立公園の大きな看板が見えてくる。広々とした太平洋も視界に飛び込んでくる。看板の設置場所としては申し分ない。看板の前で写真を撮った後、国立公園のインフォメーションセンターに立ち寄る。


レッドウッド国立州立公園の入口看板はとても大きかった。

レッドウッド国立州立公園の入口看板はとても大きかった。

国立公園のインフォメーションセンター

国立公園のインフォメーションセンター


 そうして、ようやく国立公園の「南部管理センター(South Operation Center)」、通称SOC(ソック)に到着した。鉄筋コンクリート3階建て、切妻屋根の建物はかなり大きい。駐車場に車を停めて受付に申し出る。間もなくスタージアさんが現れた。
 「レッドウッドにようこそ。無事着いてよかったわね!」
 小柄でとても気さくな感じの女性だった。
 「早速宿舎の方に行きましょうか。荷物も届いているわよ」
 建物の中は広々としている。マンモスケイブ国立公園とは施設の規模が二まわりほど違う。私たちの送った荷物は、その一角を堂々と占拠していた。他の職員は調査に出払っているらしく、室内は閑散としている。
 「それにしてもすごい荷物ねえ」
 日本からの炊飯器やワシントンDCで着るスーツ、その他調査用具などに加えて、マンモスケイブで集めた資料が捨てられず、ほとんどを箱詰めして送っていた。ここにいる間に何としてもレポートにしてしまいたいところだ。
 「さあ、暗くならないうちに荷物を運びましょう。公園のトラックが使えると思うわ」
 早速3人で荷物をトラックに積み込んだ。

国立公園の南部管理センター

国立公園の南部管理センター


ボランティアハウス入居

ボランティアハウス外観

ボランティアハウス外観

 「………」
 ボランティアハウスに足を踏み入れた妻はしばらく絶句している。部屋の中はまるで廃墟のようだ。埃の積もった家具やばらばらのベッドのフレームが乱雑に置かれ、足の踏み場もない。
 「この建物は雨漏りがあってしばらく使っていなかったの。一応修理は終わっているのよ。それにしてもひどいわねえ」
 私たちの世話役であるスタージアさんもあきれている。彼女はレッドウッド国立州立公園の生物学者で、ボランティアコーディネーターではない。この公園にはボランティアが多いのだがコーディネーターは会計課の職員が兼務している。だからボランティアを使う部署の職員が直接世話をしなければならない。スタージアさんには、すでに先に郵送していた大量の荷物を保管してもらい、さらにその荷物を公園のトラックで運んでもらっている。部屋の片付けの手伝いを申し出てくれたが、これ以上迷惑をかけることはできない。

 「私たちで片付けます。その代わり今日はこちらにいることにします」
 早速、作業を開始する。重い家具を動かし、ベッドを組み立てる。木製家具は無垢材で作られているのでとてもしっかりしているが、それだけに重い。
 「この窓の汚れ方はひどいわ」
 よくみると窓ガラスの外側に黄色いかたまりが動いている。体長が10cmもあるレッドウッドの「名物」ナメクジ、バナナスラッグだ。その名のとおりバナナのような鮮やかな黄色をしている。また、家の中には、床、バスタブ、玄関などところかまわずダンゴムシの死骸が落ちている。その量も尋常ではない。その間を縫うように、生きている虫が這い回る。レッドウッドの森の「生物多様性」にこの宿舎はすっかり占拠されてしまっていた。妻は今にも泣きそうだ。ナメクジも虫も大嫌いなのだ。

 不思議なことにボランティアハウスにはテレビがなかった。その代わり、リビングには、煙突付きの薪ストーブが設置されている。ラジオはかろうじて2局だけ入った。比較的受信状況がよかったのが「Cool 105(クール・ワンオーファイブ)」というオールディーズのラジオ局で、なかなかいい曲が流れてくる。
 レッドウッドの森の宿舎は、かつて大規模に伐採された二次林の中に建てられている。建物は2棟に分かれていて、1棟に2部屋ずつの個室がある。
 この辺り一帯はウルフクリークと呼ばれ、近くにはファイアステーション(消防・防火事務所)とバンガロー付きの野外学校がある。野外学校は、普段は一般に開放されてなく、ボランティアハウスを含む一帯の施設への取りつけ道路には、鍵付きのゲートが設置されている。
 ゲート付近はうっそうとした原生林だ。朝夕ゲートを開閉するために車を降りると、ひんやりと湿った空気に包まれる。かすかに杉の葉に似た香りがする。ゲート脇にあったレッドウッドの木は少なく見積もっても樹齢800年、日本の鎌倉時代の初期に芽を出したことになる。そんなことを考えていると、毎朝何か宗教的で神秘的な気分にさせられる。

レッドウッドの原生林に囲まれたウルフクリーク地区のゲート

レッドウッドの原生林に囲まれたウルフクリーク地区のゲート

ゲート脇にあるレッドウッドの大木(※1本の木に見えますが、実際には2本の木が前後して並んでいます。)

ゲート脇にあるレッドウッドの大木(※1本の木に見えますが、実際には2本の木が前後して並んでいます。)


 気が遠くなるほど念入りに掃除を行い、山のような洗濯物を片付けると、部屋は見違えるようになった。ようやく妻もここで生活する自信が持てるようになったようだ。
 一般利用者の立ち入りが制限されているために人の声もなく静かだ。夜になると決まって「何か」が屋根を走り抜ける音が聞こえてくる。何といってもここはレッドウッドの森、すばらしい自然が残されている。

ようやくきれいになったボランティアハウス

ようやくきれいになったボランティアハウス


パン焼き機購入

 毎日の野外作業にはサンドイッチが手軽なのだが、食パンがすぐになくなってしまう。
 ボランティア宿舎から近くのスーパーまでは車で片道40分以上。道は上り下りも多く、それほど頻繁に買い物には行けない。公園事務所の向かいにあるカントリーストアにも食パンは売られているが、古い上に値段も高めだ。そこで、パン焼き機を購入することにした。
 「近くにうまい食パンを売っている店もないし、小麦粉なら安くてかさばらないよ」
 屁理屈をこねて妻の説得に成功。日本の有名メーカー製の一斤タイプが何と10ドル。スリフトショップ(妻の一言参照)で購入した。
 初めは二人とも半信半疑だったが、毎朝タイマーでパンが焼きあがるようになって、そのとりこになった。焼きたてのパンは市販の食パンとは比べ物にならないほど美味しい。アメリカではパン用の粉やバターも格安だ。
 それにしても不思議なのは、市販のパンの値段と味だ。日本の食パンの2〜3倍の量で1ドルしないものもある。どうすればこんなに安くなるのかわからない。一方、当然のことながら味もよくない。焼いてもジャムをつけても美味しくなかった。

パン焼き機で焼いたパン

パン焼き機で焼いたパン


 パン焼き機購入を期に、いろいろなパンも試してみた。おからパンはしっとりとしていて、バターの節約にもなる。豆腐を作った後は決まっておからパンにした。パン生地だけを作って自分で成型してオーブンで焼くことも試した。生のガーリックとバターを乗せて焼いたガーリックパンはおいしかった。また、自家製アンパンはアメリカ人にも好評だった。
 このパン焼き機はその後ワシントンDCまで持って行き、散々迷った末、日本に持ち帰ることはあきらめた。
 帰国後、電気店の広告を見るたびその値段の高さにため息が出る。アメリカの広い宿舎と違って台所のスペースにも余裕がなく、私たちはまだ購入に踏み切れずにいる。

【1】
国立公園管理事務所も国の機関なので土日は閉まっている。職員の勤務も基本的にはカレンダー通りだ。土日や夏休みシーズンに勤務している「レンジャー」は、ビジターサービス部門か取締担当の職員がほとんどであり、シフトを組んで勤務している。

レッドウッド国立州立公園の歴史概観(Official National and State Parks Handbookより抜粋翻訳)

 第一次世界大戦後、カリフォルニア州ハンボルト・カウンティーとデルノルテ・カウンティーにまたがる、最後の大面積レッドウッド原生林を伐採から守るため、古生物学者たちが初めての全国的な保護キャンペーンを行った。彼らはレッドウッドに関する学術論文の発表、レッドウッド林の踏査、及びレッドウッド原生林保護の中心的役割を担うことになるレッドウッド保護連盟の設立を助けた。保護連盟は、寄付金や補助金により、1920年から1960年までに100,000エーカー(約4万ヘクタール)以上のレッドウッド原生林を買い上げた。連盟が買い上げた土地のほとんどは、現在ハンボルト、プレーリークリーク、デルノルテコースト、及びジェデダイアスミスの4つの州立公園として保護されている。これらのレッドウッド原生林は、当時残されていた平地に生育する巨大なレッドウッド原生林の多くを含んでいた。このため、当時の人々は森林の保護が十分行われたと考え、保護の気運は低下した。これらの森林のほとんどは低地や氾濫原に位置する森林であったが、それらの上流にある相対的に細いが経済的価値の高いレッドウッドの原生林は保護の対象にならなかった。当時は、森林の流域単位での保護という考え方がなかった。
 その一方で、第二次世界大戦後の住宅建設ブームにより、1950年代にはそれまでの3倍もの勢いでレッドウッドの伐採が進んだ。斜面林の多くは木材会社の所有であり、政治的・経済的にもその保護は難しかった。保護連盟も当時はそのような比較的細い樹木の保護には興味がなかったために伐採会社との関係も良好で、それゆえ巨額の寄付金集めにも成功していたという背景もある。このため、依然流域単位での保護を進めようという意見は少数派にとどまり、斜面林の伐採が続けられた。このような保護政策の遅れが後の大洪水の頻発を招き、低地レッドウッド林の存在が脅かされる一因ともなった。
 1960年代になると、環境問題が顕在化し、経済的価値の多少にかかわらず貴重な生態系を守るべきという動きが生まれた。しかしながら、レッドウッドの保護と経済的発展は相容れず、保護は遅々として進まなかった。斜面林の大規模伐採が進む中、1955年には大規模な洪水が発生し、ブルクリークという地域で、上流からの土石流により原生林の樹木500本が押し流されるという大惨事が発生した。1964年には再び大洪水が発生したことなどをきっかけに、シエラクラブがレッドウッド林保護のための活動を開始し、当時のジョン F. ケネディー大統領に働きかけた。シエラクラブは、1960年当時ほとんど手つかずの原生林が残るレッドウッドクリークを国立公園にしようとした(これに対し、レッドウッド保護連盟はジェデダイアスミス及びデルノルテコースト州立公園の上流部に当るミルクリークをその候補の一つとしていた)。ナショナルジオグラフィック協会の調査により、世界で最も高い木がレッドウッドクリーク沿いに数本見つかったことにより、レッドウッドクリーク一帯の保護活動に拍車がかかった。ちなみに、当時トールトゥリーグローブ(高木の森)で見つかった最も高い木は367.8フィート(約112メートル)もの高さがあった(当時世界で最も高い木)。
 1964年、シエラクラブは90,000エーカー(約3万6千ヘクタール)にも及ぶ国立公園を提案した。その構想は、レッドウッドクリーク集水域の半分を公園に含み、売り渋る伐採会社から用地を購入するために1億6,000万ドル(約192億円)もの費用を支払うというものであった。しかしながら、当時は用地がすでに連邦政府所有地であるか、寄付された土地でなければ国立公園を設立することは困難であり、それまで連邦議会が承認したことのある公園買収費用は最高でも1件あたり350万ドル(約4億2千万円)に過ぎなかった。
 3年間にもわたる政治的争いの末、1968年10月に連邦議会は58,000エーカー(約2万3千ヘクタール)のレッドウッド国立公園の設立を承認する法律を可決し、当時のリンドン・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)大統領がその法律に署名した。この公園は20,000エーカー(約8千ヘクタール)のレッドウッドクリーク沿いの森林を9,200万ドル(約110億円)という巨額の費用により購入したものであったが、伐採会社などの抵抗により公園区域が大幅に縮小された結果、公園化された原生林は河川沿いの細長い区域だけにとどまり、その不自然にひょろ長い形状から“イモムシ(The Worm)”と揶揄された。1969年と1976年の連邦議会に拡張案が提案されたものの否決され、その間に、保護の対象とならなかった大部分の原生林の伐採が続いた。1976年の議会公聴会では、既にレッドウッドクリーク集水域の原生林の90%以上が伐採されてしまったことが明らかにされた。当時のカーター政権は公園拡張に前向きであったが、実際に公園区域の拡張を達成するまでに、さらに2年の年月を必要とした。
 1978年の連邦議会で、遂に48,000エーカー(約2万ヘクタール)の拡張が認められ、これによりレッドウッドクリークの下流1/3に当る地域が国立公園として守られることになった。さらに上流の民有地など30,000エーカー(約1万2千ヘクタール)が、公園区域外の「公園保護地域」として指定された。
 こうしてようやく国立公園に編入された伐採跡地は、ずさんな林道建設や無謀な伐採行為の爪跡が深く刻みこまれていた。レッドウッド国立公園には、自然修復の専門家らが集められ、レッドウッド林本来の生態系を取り戻すための取組みが続けられている。

<妻の一言>

スリフトショップ

 レッドウッドに移ってから、「スリフトショップ(thrift shop:倹約商店?)」という店に行くことが多くなりました。中古品を扱う店のことですが、日本のリサイクルショップというよりは、常設の「バザー」という感じです。収益の一部が教会などに寄付されるお店もありました。商品はまさに玉石混交で、食器や洋服、家具、電化製品から中には中古車まで売っている店もあります。価格は驚くほど安く、1ドルから10ドルくらいが最多価格帯です。また、日本のリサイクルショップと違い、商品の引き取りは無償なので、余程ひどいものでなければ受取を拒否されたりしないようです。そのため、使い古されたものであってもまだ使えるものであれば立派に流通しています。例えば、購入した二段重ねの蒸し器は相当の年代モノでしたが、使いやすく丈夫でした。
 このような店はマンモスケイブにもありましたが、どちらかというと低所得者層対象という感じでした。カリフォルニア州北部に来てみると、店も多く、一般的によく利用されているようです。また、古着が充実しているところ、電化製品が充実しているところ、食器が揃っているところなど、それぞれ特徴もあります。電化製品などには不思議なガラクタも多く、主人はすっかり病み付きになってしまったようです。中には、それまで苦労していた納豆の温度調節問題を解決してくれた、蜀台型の電気ランプなどの掘り出しものもありましたので、一概にガラクタばかりとも言い切れません。使い捨て文化のイメージが強いアメリカで、多くの人々がこのような店を利用しているのには正直驚きました。
 レッドウッドのボランティアハウスは、あまり食器や電化製品が充実していませんでした。そこで、足りないものはスリフトショップで購入することにしました。コップが一つ50セント、皿一枚が1ドルといった値段です。掘り出し物も多く、かなりいいものを揃えることができました。中には、日本にはないデザインが気に入ってしまい、わざわざ日本に持ち帰ったものもあります。最も値が張ったものは掃除機の60ドル(約7,200円)。日本の掃除機も持参していましたが、アメリカのカーペットにはとても太刀打ちできません。
 迷いに迷いましたが、テレビも購入しました。古い日本製のカラーテレビが38ドル(約4,600円)です。テレビをつけてみてわかったのですが、ボランティア宿舎の周辺はレッドウッドの高木で電波状態が悪く、テレビが映らなかったのです。そのためこのテレビはビデオ専用となりました。
 こうした購入品は、一部を国立公園事務所に寄付し、残りは職員食堂の一角でバザーを開いて引き取ってもらいました。大した額ではありませんでしたが、地元のコミュニティーに寄付することにしました。
 この地域の特徴として、健康志向の強いと大都市などでよく見かけるオーガニックストアがあり、品物の値段は高めですが、お店の駐車場はいつもいっぱいで大手スーパーマーケットよりお客が多い気がしました。また、となりのモンデシーノ・カウンティー(カウンティーは、日本の「郡」に似た行政単位)は、アメリカ国内で初めて遺伝子組換え作物の栽培を禁止したことでその名が知られています。この地域には食の安全性や環境問題に関心のある人が多い気がしました。


アンケート

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(記事・写真:鈴木 渉)

※掲載記事の内容や意見等はすべて執筆者個人に属し、EICネットまたは一般財団法人環境イノベーション情報機構の公式見解を示すものではありません。

〜著者プロフィール〜

鈴木 渉
  • 1994年環境庁(当時)に採用され、中部山岳国立公園管理事務所(当時)に配属される。
  • 許認可申請書の山と格闘する毎日に、自分勝手に描いていた「野山を駆け回り、国立公園の自然を守る」レンジャー生活とのギャップを実感。
  • 事務所での勤務態度に問題があったためか以降なかなか現場に出してもらえない「おちこぼれレンジャー」。
  • 2年後地球環境関係部署へ異動し、森林保全、砂漠化対策を担当。
  • 1997年に京都で開催された国連気候変動枠組み条約COP3(地球温暖化防止京都会議)に参加(ただし雑用係)。
  • 国際会議のダイナミックな雰囲気に圧倒され、これをきっかけに海外研修を志望。
  • 公園緑地業務(出向)、自然公園での公共事業、遺伝子組換え生物関係の業務などに従事した後、2003年3月より2年間、JICAの海外長期研修員制度によりアメリカ合衆国の国立公園局及び魚類野生生物局で実務研修
  • 帰国後は外来生物法の施行や、第3次生物多様性国家戦略の策定、生物多様性条約COP10の開催と生物多様性の広報、民間参画などに携わる。
  • その間、仙台にある東北地方環境事務所に異動し、久しぶりに国立公園の保全整備に従事するも1年間で本省に出戻り。
  • その後11か月間の生物多様性センター勤務を経て国連大学高等研究所に出向。
  • 現在は同研究所内にあるSATOYAMAイニシアティブ国際パートナーシップ事務局に勤務。週末、埼玉県内の里山で畑作ボランティアに参加することが楽しみ。