No.006
Issued: 2006.10.26
遠征編 from Mammoth Cave
国立公園北の入り口ゲートを通過してしばらくすると、右手に広々とした盆地をシェナンドア川がゆったりと蛇行して流れる風景が一望できる。ここはバージニア州にあるシェナンドア国立公園。アパラチア山脈の北端に位置する国立公園で、首都ワシントンDCからは2時間程の距離だ。
公園を南北に貫くスカイラインドライブは、ほぼ山脈の稜線に沿って建設されている。
路傍の駐車スペースで車を降りると、私たちはすぐにカメラを取り出して写真に収まった。
○シェナンドア国立公園
1935年設立。公園面積79,400ヘクタールのうち約32,000ヘクタールがウィルダネス地域に指定されている。シェナンドア国立公園は有料公園で、利用料金は車1台当たり15ドル(11月から2月までは10ドル)ほどだ。公園に入る車道4ヶ所に料金ゲートが設けられている。
延長約170キロメートルのスカイライン・ドライブは、この地域で最も人気のあるドライブコースのひとつ。また、この車道に並行するようにアパラチアントレイルと呼ばれる遊歩道(トレイル)が延びている。公園内にはその他にも多くのトレイルが整備されており、公園内のトレイル延長は約800キロメートルにも及ぶ。公園は広葉樹林に覆われ、ブラックベアーやシカなどの野生生物が生息する。
現在の公園区域内には、かつて465の家族が居住していたが、国立公園設立に伴い移転を余儀なくされた。1700年初期から伐採が行われてきたために、公園内の森林のほとんどは2次林だ。
年間訪問客数は113万人(2003年)。ワシントンDCから120キロメートルと近いので、アメリカの首都訪問の際には、ぜひ足を伸ばしていただきたい公園だ。また、ワシントンDC郊外から延びるインターステート66号線(I-66)沿いにはワイナリーも多く、公園の行き帰りのちょっとした寄り道に最適だ。
シェナンドア国立公園のスカイライン・ドライブ
スカイライン・ドライブは、この国立公園のいわば目玉というべき公園道路である。その路線のほとんどが尾根筋や尾根筋直下を通っている。路傍の展望駐車場も大規模で、設置箇所も多い。シェナンドア国立公園は、さながら国営の観光道路といった感があり、とにかく展望台や駐車場からの景色はすばらしい。ちょっと車を停めて景色を眺めたり記念撮影をしたいと思うような場所には、しっかりと展望スペースが作ってある。施設建設時には相当大規模な土木工事が行われたはずである。
施設がしっかりしているだけに、利用者が道路敷から外に踏み出すことはめったにない。道路の法面は岩盤が剥き出しで、日本のようなコンクリートの吹きつけやブロック積みはほとんどない。そもそも、尾根筋に道路が通っているので、法面は目立たない。路肩にはガードレールがない代わりに、低い石積みか、角材でできた木柵が設置されている。視界を遮るものがなく、開放感がある。
一方、路上に落石が転がっていることもまれではない。自己責任の国アメリカだからなのか、あるいはシカが飛び出したり、風景に見とれた対向車が突っ込んできたりするリスクの方が高いからなのかはわからないが、それを取りたてて気にするような利用者もいないようである。
展望台からの眺めのすばらしさには理由がある。目の前の林をばっさり切って見通しをよくする、いわゆる通景伐採が行われているのだ。さすがに近年は公園管理組織の内部でも賛否両論あるそうだが、道路からの展望を重視する国立公園局では、現在もこのような伐採が行われている。道路際から最高の眺めを楽しむことができれば、わざわざそれ以外のところに違法駐車する理由はない。
ちなみに、日本の場合、国立公園では伐採をせずに、2〜3階建て程度の高さの展望台を作ることが多い。改変する面積は少ないが、転落の危険や維持管理費用の負担が大きく、加えて高齢者や乳幼児を連れた家族にとっては利用しづらい。周辺の林も生長するので、中には展望の利かない「樹冠観察台」になってしまっているところもある。最近は、高齢者や車椅子利用者への配慮など、難しい問題も出てきている。シェナンドア国立公園で目の当たりにした利用者優先の施設計画と管理には、正直なところかなり抵抗もあったが、この思い切ったやり方こそが、アメリカの国立公園が持つ魅力でもある。
ワシントンDC訪問
2003年6月7日〜15日にかけて、ワシントンDC及びシェナンドア国立公園の訪問を目的とする「遠征」を行うことになった。2004年の11月から予定された魚類野生生物局(ワシントンDC)における私たちの研修について事前の打ち合わせが必要だったのと、その機会にシェナンドア国立公園での聞き取り調査を行うのが目的だった。また、ワシントンDCの街の様子や職場の雰囲気も見ておきたかった。ワシントンDCを訪れる以前は、アメリカの首都というと何やら東京とイメージがだぶって少し気が重かったものだ。
マンモスケイブからワシントンDCまでは車で片道10時間以上の行程だった。到着した私たちを日本大使館のN書記官が迎えてくれた。まずは昼食に、ベトナムラーメンを御馳走していただいた。久々のしょうゆ味に感激、なぜか涙が込み上げてくる。客のほとんどがアジア系で、これにもほっとさせられた。考えてみると、あわただしい出国と初めての異国暮らしは緊張の連続だった。
翌日、さっそく魚類野生生物局を訪問した。魚類野生生物局は、国立野生生物保護区の管理から絶滅のおそれのある野生生物の保護管理まで、幅広い業務を担当している。国立公園局同様、内務省の下部組織である。
「ようこそ魚類野生生物局へ!」
にこやかに笑いかけてくれるのは、私たちの研修担当者であるピーター・ウォードさんだ。ピーターさんは、大きな身体を小さく折りたたむようにして、私たちの下手な英語に耳を傾けてくれる。
ピーターさんの配慮で、会議室には様々な部署から職員が集まってくれた。
一通り業務説明を受け、「さあ、どの仕事がいいですか?」と聞かれる。個人的には、仕事をお手伝いしながら、その合間に聞き取り調査をしてまわりたいと思っていた。一方、魚類野生生物局の方では、せっかく日本からはるばる来たのだから、何か独立した仕事を任せたいと考えてくれていたようだ。
国立公園での実務研修一辺倒の毎日とは少し違った研修になるかもしれないという気がしてきた。同じアメリカの連邦政府機関であっても、外国人研修生受け入れに対する姿勢にはそれぞれに個性がある。
打合せが終わると、参加者全員で食事に出かけた。行き先は、何と日本食ビュッフェ。皆、意外と寿司なども好きなようで、箸の使い方も堂に入っている。
海苔巻きは、海苔が内側に巻き込んであり、ゴマがまぶしてあったりと、寿司ダネには変わったものも多かった。味も悪くない。それにしても、久しぶりに食べた天ぷらのうまかったこと。ベトナムラーメン、日本食のビュッフェと、久しく触れることのなかった日本の味に出逢った辺りから、私たちのワシントンDCに対するイメージがぐっと好転しはじめた。
国立公園における入場料収入
6月12日、この日はN書記官の調査に同行して、シェナンドア国立公園を訪問した。料金収入について説明を受けるためだ。国立公園における料金収入に関する調査は環境省からの依頼で、N書記官が国立公園局本局とシェナンドア国立公園、私がマンモスケイブ国立公園をそれぞれ分担することになっていた。国立公園局からはルディー・ダレッサンドロさんが同行してくれた。お二人は、まさに私の研修のきっかけを作ってくれた恩人だ。
国立公園局には「フィー・プログラム」と呼ばれる制度があって、入場料収入が運用されているという。日本の国立公園でも、入場料などの料金を徴収し管理費に充てようと、これまでも検討がなされてきた。国立公園の現場は、とにかく人も予算も足りないのだ【1】。
また、入場料金の徴収には、利用の抑制効果もある。夏休みや紅葉のシーズンなどの利用誘導に効果を発揮することが期待される。
しかし、日本では料金制度導入に対する抵抗が根強い。料金収入のような特別会計をつくるのは時代の流れにも逆行するし、一般会計が圧縮されることにもなるだろう。そこで、入場料に関しても先進国であるアメリカで、そのメリット・デメリットを把握しようというのが、この調査のねらいだった。
フィー・プログラム
レクリエーショナル・フィー・デモンストレーションプログラム(Recreational Fee Demonstration Program:通称「フィー・プログラム」)は、1997年度から2004年度までの時限的な制度として導入された予算プログラムだ【2】。国立公園局の他、森林局や魚類野生生物局にも適用されている。
1990年代、米国の国立公園は深刻な経費不足に見舞われた。歩道や標識は荒廃し、歴史的建築物は補修の遅れが目立つようになった。このため米国議会は、1996年度の内務省予算法(FY1996 Interior Appropriations Act)の中で、フィー・プログラムを承認し、これに対応しようとした。
フィー・プログラムは、これまで国庫に納付していた国立公園の入園料や有料プログラムの徴収料金を、そのまま各部局の独自財源とすることができるという意味で画期的な制度だった。国立公園局では徴収料金の80%を、料金が徴収された各国立公園の予算として使用することができる。
フィー・プログラムが導入される以前は、一部の特別な料金収入を除いて、国立公園における料金収入は土地及び水保全基金に納付され、レクリエーション目的で公園の区域内または隣接する区域、もしくは新規公園設立予定地において用地を買収するための資金として使用されていた。これは、1965年に制定された土地及び水保全基金法(Land and Water Conservation Fund Act:AWCF)に基づく制度だった。また、料金徴収額にも上限が設けられていた【3】。
フィー・プログラムの導入により、料金上限規定が撤廃され、これらの収入の使途はビジターサービスに関係する臨時職員の給与や施設の更新に拡充された。また、基金を経由せず、直接公園予算として使用できるようになった。
一方、このプログラムの導入により、料金上限撤廃と値上げによる運営費用増額のインセンティブが働いた結果、入場料金が大幅に値上げされた。その結果、訪問者は経済的に余裕のある層が多くを占めることとなり、裕福な利用者に偏重した公園管理を招いているのではないかとの懸念が生じている。また、この予算は議会の承認を要しないため、国民の監視が行き届かないおそれもある【4】。
予算の使途が、依然、ビジターサービスに関連する施設の更新にしか使用できないなど制約はあるものの、予算不足で施設の補修・改修ができずにいた国立公園が多かったため、同制度の導入は公園施設の老朽化が進む各国立公園で歓迎され、施設の改善が進んだ。なお、国立公園局の2007年度予算書【2】によれば、この制度は、2005年度予算関係の一括法(FY 2005 Omnibus Appropriations bill)により拡充され、継続されることになった【5】。
シェナンドア国立公園の入場料収入
シェナンドア国立公園では、トリシュ・キックライター総務課長兼所長補佐官が対応してくれた。キックライターさんの説明によれば、シェナンドア国立公園のフィー・プログラム収入は全米でもトップ10に入り、年間予算は300万ドル(約3億3千万円、20%控除後)にものぼる。これに対し、議会で承認される一般会計予算は、約1,040万ドル(約11億4千万円)で、実に公園の通常予算の30%にも相当する収入がフィー・プログラムにより得られていることになる。一般会計予算は、87%が人件費に、5%が公共料金の支払いに充てられており、公園の運営費は一般会計予算額の8%に過ぎない。フィー・プログラム収入がいかに重要かということがわかる。
なお、公園内を縦断するスカイライン・ドライブの補修には多額の費用がかかるため、連邦高速道路基金から別途140万ドル(約1億5千万円)を措置する予定ということであった。
フィー・プログラム予算は、3年という限定期間内で翌年度以降に繰り越せる。議会で承認された一般会計予算は、「○○施設建設に係る予算」として箇所ごとに承認された予算(line items)に限って翌年度以降に繰り越せるが、それ以外の予算は基本的に当該年度に使い切らなくてはならない。
一方で、フィー・プログラムによる収入は補足的な経費との位置付けがあるため、設置した施設の運営費用(operational cost)や正職員(permanent staff)の雇用には使用できないという制約もある(2004年度現在)。一般的に、施設を改修するとエネルギー消費量や水の使用量が増える傾向があり、結果として限られた一般会計予算を圧迫することにもなる。
いずれにしても、シェナンドア国立公園では、このようなフィー・プログラムによる追加予算により遅れていた施設の改修などにようやく着手できるようになったそうだ。
マンモスケイブでの料金収入
マンモスケイブ国立公園でも、この制度により公園内の標識やキャンプサイトの再整備、車道の付け替えなどが進められていた。有料のケイブツアーから得られる収入は約110万ドル(約1.2億円、2002年度)であり、この収入を除く年間の通常予算570万ドル(約6億円、2002年度)の約22%に相当する。
シェナンドア国立公園の聞き取り調査で伺った施設維持費用に関する課題について、後日、マンモスケイブ国立公園のメンテナンス部門長、スティーブ・コバー氏に話を伺った。
スティーブさんの話によると、予算が増えてきたので、とにかく契約件数が多くて大変だという。見ると、部屋には図面が山積みになっていた。
当時、スティーブさんの頭をもっとも悩ませていたのは、鍾乳洞内施設の大幅なリニューアルだった。増加し続ける利用者数に対応するという理由に加え、鍾乳洞内に設備した蛍光灯も問題となっていた。光がコケの繁殖を招き、生態系が変化しつつあったのだ。蛍光灯の安定機が熱を出し、ネズミが巣を作ることもあるということだった。
蛍光灯に着色フィルムをつけたりその色を変えてみたりと、さまざまな実験を行ってきたが、思ったような成果は得られなかった。当時普及しはじめていたLED(発光ダイオード)による照明システムへの移行が検討されていた。メンテナンスコストや生態系への影響を大幅に軽減できそうだとの見込みがあった。
システムの更新は、マンモスケイブが誇るメンテナンス部門の縮小とも密接に関係していた。フィー・プログラム収入は増加しているが、対照的に一般会計は横ばいだ。インフレや定期昇給に伴う人件費の上昇分を見込むと実質減少している。メンテナンス職員も、削減の対象として例外ではない。施設の方も、手のかからないメンテナンスフリーの施設への更新が必要となってきていた。
鍾乳洞内の蛍光管は一本1.8メートルほどもある。安定機も牛乳パックひとつ分ほどのサイズで、それが鍾乳洞内に無数にある。給電施設も大掛かりで、大型の変圧器まで設置されている。
説明されてはじめてわかる配線の巧みなカモフラージュ。利用者の目に付かないところから、はしごや予備の蛍光管が出てくる。蛍光灯はすべて間接照明になるよう配置され、ライト本体が見えないように工夫されている。電球の交換にはさまざまなノウハウやコツがあり、メンテナンス職員の説明は聞いていて飽きない。
ところで、この公園のメンテナンス職員の多くは、従軍経験のある元軍人だった。一般的に政府職員は、軍人、ピースコープ職員(日本の青年海外協力隊に類似の制度)など政府に奉職した人たちの受け入れ先ともなっているそうだ。そういった“優先権”を持っていない限り、事実上採用されるのは難しい。反対に、実戦経験や負傷があれば優先度はさらに高くなる。
ベテランのメンテナンス職員の多くはベトナム戦争従軍者だった。そのためその多くが一時期に集中して定年を迎える。アフガニスタンやイラクの戦争では、ベトナム戦争に比べて負傷者などが少ない上に、予算の制約もあって後釜が埋まらないそうだ。
余談だが、これらの経験豊富なメンテナンス職員は実に様々なことを知っている。あまり口数は多くないが、私たちのような外国人も温かく見守ってくれ、時々なまりの強いジョークで笑わせてくれる。緊張していた妻もこれには助けられたようだった。通勤途中にすれ違うと手を振ってくれるのも、メンテナンス部門の面々だった。妻の釣りの師匠のアーバートさんや、よくメンテナンスの仕事に連れ出してくれたジェシーさんなど、親しくなった職員も多い。メンテナンスの業務とは、公園の舞台裏、いわば土台のようなものだ。このような職員の削減は、国立公園の管理への影響も小さくないだろう。
グレートスモーキーマウンテンズ国立公園
テネシー州とノースカロライナ州にまたがるグレートスモーキーマウンテンズ国立公園は、実はアメリカの国立公園の中でもっとも利用者が多い。2003年の利用者数は約920万人。2番目に多いグランドキャニオン国立公園が410万人だから、実に2倍以上の利用者が訪れている。
私たちは2003年の8月と10月の2回、マンモスケイブから車で4〜5時間のグレートスモーキーマウンテンズ国立公園を訪れた。面積約21万ヘクタールの同国立公園は、シェナンドア国立公園やマンモスケイブ国立公園と同様、もともと民有地だったところを買収して設立された公園だ。その誕生には様々な困難が伴ったという【6】。マンモスケイブ同様、買収資金の一部が一般市民からの寄付によって賄われたため、入場無料の公園となっている。
ツガの一種であるヘムロック(Hemlock)が広範囲に自生しているのは、米国南東部ではグレートスモーキーマウンテンズ国立公園だけであるが、近年はアジアから移入しカサアブラムシ(Balsam Wooly Adelgid)による食害で大きな被害を受けている。また、酸性雨による立ち枯れが目立つなど、自然資源管理の面でも様々な問題を抱えている。
1920年代末の土地所有図を見ると、山麓は農場、中腹から山頂にかけては木材業者と製紙業社10社ほどが土地を所有している。山の森林は、1934年の公園設立当時、山頂のごく一部を残して伐採されていた。
現在は鬱蒼とした森林に覆われているグレートスモーキーマウンテンズ国立公園。古い写真などを見ると、これが同じ国立公園かと思うほど、すさまじい伐採の様子が伺える。今でも公園内に残る開拓民の住居跡には、当時現地に生えていたらしいチェスナッツ(クリ)材が、壁や床、屋根などいたるところに使われている。その大きさを見るだけで、どれほど素晴らしい森林が広がっていたか想像できる。
グレートスモーキーマウンテンズ国立公園は、1920年代から40年代にかけてアメリカ東部で興った国立公園設立運動で設立された公園のひとつである。この運動は、政府の主導ではなく、先見の明のある活動家や、研究者、資産家(ロックフェラー・ジュニアなど)、政治家、そして一般市民の自由意思と資金によって行われたところに特徴がある【7】。
アメリカという資源依存型社会にあって、その利益代表者としての連邦政府議会、批判的精神を持ち、発言・行動する高い意識を持つ市民、自らの意思により社会貢献しようとする資産家など、それぞれ異なる主体の自然地域に対する姿勢の違いを目の当たりにしてはじめて、アメリカの国立公園の本質というものが見えてくる気がする。
グレートスモーキーマウンテンズ国立公園における自然資源管理
グレートスモーキーマウンテンズ国立公園では、「全分類群生物多様性インベントリープログラム(All Taxa Biodiversity Inventory:ATBI)」という大規模なプログラムが進行している。新種を含む生物種の目録と、種の分布状況のGISデータを整備するものである。調査を行っているのは、公園の資源管理部門である。資源管理部門は1970年代の後半に取締部門(law enforcement)から独立した。1985年に職員数8名だったものが、現在は30名程に拡充されている。今後は、資源管理と環境教育の融合を目指しているとのことだ。
ところで、公園内で自動車の入り込める地域は、公園区域のごく一部に限られる。このため、車道のないウィルダネス地域では、キャンプをしながらの調査が続けられている。
利用に供する部分は徹底的に開発しながら、その残りの部分をしっかり守る、こうした国立公園の管理の手法を実感させられる。
この公園でお話を伺った、国立公園のインベントリー及びモニタリングコーディネーターのキース・ランドン氏によると、資源科学部の年間予算は総額200万ドル(約2.2億円)程度で、公園全体の予算(1,500万ドル(約17億円))の13%程度を占める。この他、年間約100万ドル(1.1億円)にのぼる寄付金収入もある。寄付金には大きく2つのタイプがあるそうだ。一つは、自動車のナンバープレートを取得する際に10ドル寄付すると、特別にデザインされたプレートが交付されるもの。もう一つは、国立公園を支援するための募金活動によるものだ。後者のような募金活動は、フレンズ・グループ(Friends group)と呼ばれるNGOが行っている。国立公園では、公園を支援する人々から幅広く寄付を集める仕組みが工夫されている。
ブラックベアー調査
グレートスモーキーマウンテンズ国立公園を訪れた翌日、テネシー大学にある米国地質調査所(USGS)【8】南部アパラチア地域現地研究室を訪問し、責任者のフランク・ヴァン・マンネンさんから、グレートスモーキーマウンテンズ国立公園でのブラックベアーのモニタリング調査についてお話を伺った。ブラックベアーは、日本のツキノワグマとほぼ同種だが、性格はツキノワグマより比較的おとなしい。
このモニタリング調査は、USGS、テネシー大学と国立公園が共同で1968年以来実施しているもので、ヒアリングに伺った当時で、調査開始からちょうど35年目を迎えていた。調査の人手を大学側が確保して、許可や宿舎などの便宜、資金の一部を公園側が用意する。公園の職員が直接作業に参加するわけではない。
国立公園内にワナを仕掛け、再捕獲の頻度などにより生息数を推測している。8箇所の調査地域が設定されており、それぞれ9ヶ所ずつワナが仕掛けられている。捕獲個体から毛及び血液サンプルが採取され、DNA分析が行われる。公園内には約1700頭のブラックベアーが生息していると考えられている。
2つの調査グループが1調査地域ずつ15日間調査し、夏期の2ヶ月間で調査を終了する。私たちが同行した調査グループは、修士及び博士課程の学生2名により構成されていた。これらの学生はモニタリングプロジェクトのスタッフとして働き、その対価として授業料相当額と賃金が支払われる。
なお、この国立公園では、クマの胆目当ての違法捕獲が跡を絶たないという。アジアのマーケットで扱われているようだ。こんなところでも、アジアの経済活動との関係があることに驚かされる。
聞き取り調査の翌日、フランクさんの案内でブラックベアー調査に参加した。
プロジェクトスタッフは、公園内に仕掛けたワナを毎日見回る。もしクマがワナにかかっていたら麻酔を打って体重などを計測する。クマが衰弱しないように、できるだけ早く調査を終了し麻酔から覚醒させてあげなければならない。この作業を夏中続けることになる。責任者のケイティーさんは、修士課程の学生だった。学生を募集し、作業班に振り分ける。グレートスモーキーマウンテンズ国立公園は山が険しく雨も多いので、斜面は滑りやすい。わずか一日調査に同行しただけだったが、私たちにもその苦労が実感できた。
私たちのフィールドであるマンモスケイブは、石灰岩地形のなだらかな丘陵地だが、シンクホール(石灰岩地帯特有のくぼ地や開口部)や浮石、崖、マダニが多い。そんなお互いのフィールドの苦労を共有できるのもボランティアのいいところだ。
何ヶ所目のワナだったのだろうか。
「クマがワナにかかっています」
先行していた学生が戻ってきて私たちに伝える。
「少し興奮しているのでここで少し待っていてください」
学生は、ケイティーさんを伴ってワナへと急ぐ。遠くからクマの姿が見える。ワナにかかったまま木の周りをぐるぐる回っている。二人は、目測した体重から割り出した量の麻酔薬を吹き矢で注入する。ケイティーさんが戻ってきた。
「麻酔が効いてきたのでそろそろ大丈夫です」
ワナにかかっていたのは5〜6才のオスだった。
「クマはワナにかかると興奮します。体重の目測を誤らないこと、確実に麻酔をかけることが重要です」
ワナは、ワイヤーでできている。思ったより簡単な構造だ。木の根元に浅い穴を掘り、穴の周囲を囲うようにワイヤーの輪を設置する。穴にクマが脚を踏み入れると、ばね仕掛けにより輪がしまり固定される。クマがけがをしないよう、各所に工夫が凝らしてある。
「ワナは、1本立ちした木に仕掛けます。そうすると、クマはある程度自由に木の周りを歩き回る余裕があります。輪が脚を締めつけないよう、ストッパーなどもついています。でも、クマは利口で、ワナの位置や構造をすぐ学習します。また、あまり同じ木を使っていると枯れてしまいますので、ワナの設置場所にはいつも苦労させられます」
餌にはカタクチイワシの缶詰を使うそうだ。
麻酔が効いたクマは、地面の上に長々と横たわっている。意外とほっそりとした体つきだ。眼球が乾燥しないよう、湿らせたバンダナを顔にかける。体長や体重、体温などを計測して、血液、唾液、体毛サンプルを採取する。個体識別のための耳冠をつけ、唇の裏に刺青を入れる。作業終了後は覚せい剤を注射し、クマが森に帰って行くのを見届けてから、ワナをセットし直して、引き続き他のワナを確認するために移動する。
アメリカのブラックベアーは日本のツキノワグマと異なり、ワナにかかった直後の興奮時や、子熊を連れている場合でなければ、たとえ遭遇してもそれほど危険ではないという。とはいえ、興奮したクマへの麻酔注射や、計測作業中にも徐々にクマが覚醒してくることを考えると、やはり危険が付きまとう作業である。
この年の調査では、のべ64頭のブラックベアーを捕獲し、サンプリングや、標識の取り付けなどが行われ、採取した血液、体毛、唾液等のサンプルが分析された。捕獲頭数は平年並み。多い年には捕獲頭数が100頭あまりにものぼるという。
プロジェクト全体で計15名の補助職員が必要となるが、急峻な山岳地帯での調査作業でもあり、調査員の確保には毎年苦労しているとのことだった。調査員希望は全体で150名を超え、中にはアジアやオーストラリアなどからの応募もあるそうだ。しかし、賃金などの待遇、体力などの適性を満たす応募者は多くないそうだ。
「今年も、学生が一人途中で業務を放棄してしまいました。突然調査にこなくなってしまったのです。メンバーを励ましながら調査を続けていくのは大変ですが、とてもやりがいがある仕事です」
ケイティーさんは明るくたくましい。
国立公園の施設計画
アメリカの国立公園は、道路をはじめとする施設計画に尽きるといっても過言ではないだろう。それを痛感したのもグレートスモーキーマウンテンズ国立公園だった。国立公園の主な興味地点のほとんどが車で到達できる。それも渋滞を避けるためにループ状の道路が多用されている。駐車場も大規模なものが要所要所に整備されている。中にはトイレとビジターセンター以外は一度も車を降りないという利用者も少なくないと聞く。山頂の巨大な展望台もさることながら、稜線直下に建設された駐車場や、そこから山頂へ延びる舗装された歩道は日本では考えにくい。シェナンドア国立公園で感じた違和感が、はっきりとした形をもって理解できた気がした。
国立公園の整備と民間人保全部隊(CCC)
1933年、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策の一環として、民間人保全部隊(Civilian Conservation Corps:以下、CCCと略す)が組織され、失業者が国立公園などの公共施設整備に従事することになった。当時の国立公園は、法的な体裁こそ整ってきたものの、まだまだ施設整備が遅れており、現在のような快適な利用環境にはなかった。深刻な大恐慌下であったにもかかわらず、国立公園システムの基礎となるインフラがこの時期、CCCにより整えられることとなった。
CCCは軍隊スタイルの組織形態をとり、主に国立公園、州立公園、及び国有林において活動した。1933年から9年間で、設立以来当時まで建設されてきた国立公園内の施設の総計よりも多くの施設が、CCCによって整備されたと言われている。1929年、株価暴落に端を発した大恐慌は、その後国立公園の利用者数を減少させたものの、公園内の施設整備水準は著しく向上した。
CCCにより、多くの道路やトレイルが、それまで原生地域であった山や森を切り崩して敷設され、博物館や職員用宿舎、キャンプ場、トイレなどの施設が公園システム全体にわたって出現した。これに対し、1930年代半ば、保全団体などから開発の規模とペースについて危機感が表明された【9】。
もう一つの重要な変化は、コスト縮減のための政府機関の合理化だった。1933年の連邦政府組織再編により、国立公園局は国立公園の管理に加え、当時その多くが森林局により管理されていた国立記念物公園、戦争省が管轄していた戦跡及び戦争記念公園などを一括して管理することになった。これにより、連邦政府の公園地は国立公園局の管理下に集約され、現在の国立公園システムの原型が形作られた。こうして、1930年代に国立公園システムは急速な成長を遂げた。
CCCによる工事が行き過ぎだったという批判も確かにある。しかし、現在の国立公園施設の骨格が形作られたのは、このCCCと後のミッション66(Mission 66)によるものといっても過言ではない。こうした、過去に行われた思い切った工事が、結果として現在の自家用車による快適な利用を可能にしていると言える。
しかしながら、CCCによる大規模な公園整備も長くは続かなかった。第二次世界大戦の端緒となったパールハーバー爆撃は、それまでの大規模な開発事業、システム拡充路線を大きく転換させることとなった。公園の運営予算は削減され、CCCの参加者の多くは戦地に派兵された。この突然の予算不足の影響は、大規模な公園再生事業として56年に開始された「ミッション66」が実施されるまで解消されなかった。1942〜1956が国立公園にとって、「貧困の時代(The Poverty Years)」といわれるゆえんでもある。
CCCでの生活
CCCは職にあぶれた青年たちを集めて宿営地(キャンプ)を作り、軍隊スタイルの生活を送りながら様々な公共事業に従事するものだった。その対価として一ヶ月30ドルが支給されるが、うち25ドルは家族に直接支払われた。このような若者により、今では考えられないような手間のかかる工事が急速に進められていった。
グレートスモーキーマウンテンズ国立公園では、1933年から1942年の間に、23の独立したCCCキャンプが設営された。1934年から35年の最盛期には、実に4,350人の若者が働いていたそうだ。なお、グレートスモーキーマウンテンズ国立公園は34年設立だが、33年当時、すでに承認手続きは完了していた(国立公園としての承認は1926年)。
先に訪れたシェナンドア国立公園でもCCCは活躍し、素晴らしい石積み擁壁をもつスカイライン・ドライブなどが整備された。
あまり知られてはいないが、マンモスケイブ国立公園の鍾乳洞内の歩道もCCCの大きな成果の一つだ。鍾乳洞内で得られる岩石や粘土のみを使って丁寧に作られた園路はいまだに現役だ。マンモスケイブ国立公園内のCCC宿舎キャンプでは、毎週金曜日に地元の女性たちとのフォークダンスパーティーが開かれていたそうだが、当時のキャンプ地は今は跡形もない。
道路を主体とした管理
道路を中心に公園が計画されていれば、当然ながら利用や管理も道路が中心となる。マンモスケイブ国立公園で聞いたところでは、国立公園の取締官(レンジャー)の仕事も、とにかく道路を走り回ることである。24時間シフトでスピード違反、違法駐車、その他不審な車の取り締まりを行なっている。利用者のほとんどが車を利用しているので、取締業務も車道上が中心となる。道路のない区域への利用者の立ち入りは極端に少ない。車道以外の場所では、資源管理、メンテナンス、インタープリテーションなどの職員が活動しており、万が一不審人物や犯罪の形跡があれば、通報する。
一方、利用は車道に集中するため、利用者誘導は車両の誘導とほぼイコールの関係にある。このため、多くの公園では、有効な利用適正化の手段としてパークアンドライドの導入が検討されている。
それにしても、公園内には車が多い。その上、さっさといなくなってしまう。素晴らしい展望台のすぐそばまで車で乗りつけ、走り去る。一方で公園側も、利用者の満足のためには、思い切った施設を作る。見所がはっきりしていて車で容易にアクセスできるから利用者の満足度も高い。利用者の平均滞留時間が短いので混雑緩和にも貢献する。アメリカの国立公園が日本人に人気が高い理由のひとつは、絶好のカメラポイントがこれでもかという程あることではないだろうか。
こうした公園の利用形態は、さまざまな弊害も呼び起こしている。冬にもかかわらずTシャツ1枚にサンダル姿で車を運転してくる人、水も雨具も持たずにテニスシューズで山道に入る人など、自動車利用のビジターの多くは、自分が危険な大自然の中に来ているという認識がほとんどない。天候の変わりやすい山道に、すべりやすいテニスシューズを履いて、適切な装備も持たずに入れば、ケガや遭難の危険性が高くなる。山頂付近まで車道の整備されている国立公園では、車から一歩外に出れば変わりやすい山岳気象の中ということも多い。多くのアメリカ人にとって、国立公園は自動車で楽しむものであり、自然は車窓から楽しむものなのかもしれない。
ところで、車利用が主体のアメリカの国立公園ではピクニックが盛んだ。車のトランクからテーブルクロスや巨大なクーラーボックスなどが次々と運び出される。公園の味気ないテーブル付きベンチが楽しげな昼食会場に早変わりする。さすがアウトドア天国の国アメリカだ。私たちも小ぶりなクーラーボックスを買い込み、ささやかながら、お昼にはピクニックを楽しむようになった。
物資調達
ワシントンDCには文化的な生活環境と「日本」があった。6月の遠征の週末、N書記官が私たちをウルフトラップという半野外劇場に案内してくれた。豊かな緑に囲まれた木造のホールは、内側が屋根つきの指定席、外側は芝生の自由席になっている。芝生席の観客は、思い思いに椅子やシートを出し、ゆったりと横になっている。
このDC郊外のホールも、実は国立公園ユニットの一つとして国立公園局が管理している。私たちも芝生で冷えたワインを飲んだ後、屋内ホールでコンサートを楽しんだ。
また、「ボルチモアまで行けば大リーグの試合が観戦できるよ」というN書記官の言葉に、さっそくチケットを購入し、夕方の環状線の渋滞に飛び込んだ。ボルチモアはワシントンDCから北東60キロほどの距離にあり、メリーランド州では最大の都市だ。ボルチモアまでの途中、これまでみたことのない車線の数と渋滞に打ちのめされながら、何とか球場にたどり着き、初めての大リーグ観戦を楽しんだ。
ワシントンDCでは、ホワイトハウスやリンカーン記念堂、モールにあるスミソニアン博物館といった有名スポットも見逃せない。これらホワイトハウスや連邦議会からリンカーン記念堂にかけて広がるモール(The Mall)も、国立公園ユニットである。ちなみに、スミソニアン博物館は入場無料。3Dの映画など、一部には有料のプログラムもあるが、それ以外はアポロ宇宙船の実物だろうが、手の込んだ恐竜の展示だろうが、すべて無料だ。この国の子供たちはなんて幸せなんだろうと溜息の出る思いだった。
ワシントンDCで私たちをもっとも狂喜させたのは、韓国系のスーパーマーケットだった。米、味噌はもちろん、しょうゆも缶入りの大きなサイズで売られている。売り場には、日本風の食器まで並んでいた。
中でも嬉しかったのは納豆だった。日本では見慣れたはずの納豆のパックが神々しく見える。日本酒や日本のビールも案外安い。ゴボウ、モヤシなど日本でおなじみの野菜もあった。
こうして初の遠征となった一週間はあっという間に過ぎた。私たちは物資と栄養を十分に補給して、また一路ケンタッキー州マンモスケイブの現場に舞い戻った。
- 【1】予算不足の国立公園の現場(日本の場合)
- 私が環境庁(当時)に採用された平成6年頃は、今以上に事務所予算が逼迫していた。電話代も切り詰められ、込み入った長電話などしようものなら、「長い」と一言、所長に電話を切られてしまうこともあった。
国立公園には、いわゆる「単独駐在」と呼ばれる1人事務所がある。このような事務所では、掃除はもちろんのこと、雪かき、経理、許認可をすべて一人でこなすことになる。その単独駐在を経験したことのある先輩職員は特に経費の無駄遣いに手厳しい。
ごく最近まで、私の斜め前の席に座っていたA課長(研修受講時は調査官、第1話参照)などもその世代だ。私の電話が長くなってくると、たまりかねたように「おまえの電話はくどいなあ。」などと注意されるが、悪癖はなかなか治らない。 - 【2】国立公園局の予算説明書
- 国立公園局の予算説明書(NPS Budget Justification、通称「国立公園局グリーンブック(NPS green book)」)には、国立公園システムに関する最新の情報が掲載されている。
- 【3】料金徴収額の上限
- イエローストーン、グランドティートン、及びグランドキャニオンの各国立公園では、入場料金は自動車1台当たり10ドル、もしくは利用者一人当たり4ドル、それ以外の公園については、自動車1台当たり5ドル、もしくは利用者一人当たり3ドルが上限とされていた。
- 【4】フィー・プログラム導入による懸念
- 当面大幅な税収の伸びが期待できない米国の経済状況から考えれば、このような制度は公園の利用者サービスレベルの維持に欠かせない。料金収入を含む国立公園局の特別会計の割合は、1995年度では5%未満であったものが、1996年度のフィー・プログラムの導入を境に、1998年には10%に増加している。これは、国立公園局の財源に占める一般財源の割合が徐々に減少していることを示しており、国立公園システムの管理自体が、一般の税収だけではなく、特定の利用者層から得られる財源に徐々に移行しつつあることを示している。
入場料金などの高騰により、貧困層や子ども連れなど家計に余裕のない層の利用が困難になる傾向もある。ヒスパニック系住民の増加など米国の社会構造も変化しており、「国民すべての財産」であったはずの国立公園が、裕福な利用者層などの利用に管理の重点を移しているような印象も受ける。
この料金プログラムの導入が今後の米国の国立公園の「質」にどのような影響を与えるのか、興味深いところである。 - 【5】フィー・プログラムの拡充・継続
- 一括法の中で、連邦政府レクリエーション促進法(Federal Lands Recreation Enhancement Act(FLREAもしくはREA))が制定され、国立公園局にはフィー・プログラム適用について10年間の延伸が認められた。また、予算の使途も拡充された。また、これまで料金徴収額のうち一律8割を徴収公園で使用できるとされてきたが、徴収額が50万ドル(約5,500万円)未満の公園については徴収額の全額を使用できることとなった。
2006年度は、国立公園局全体で9,500万ドル(約105億円)、2007年度は1億ドル(約110億円)の料金収入(fee revenue)を見込んでいるという。なお、1996年度以降の料金収入総額は累積で10億3,200万ドル(約1,135億円)にものぼり、この予算は施設の改修や更新に大きく貢献している。
また、REA法では、「アメリカ、美しい国立公園及び連邦政府レクリエーション地パス(America the Beautiful National Parks and Federal Recreational Lands Pass:ATB)」という、国立公園局、魚類野生生物局、公有地管理局、開拓局、及び森林局共通の通行券を導入し、これまでの「国立公園パス」を廃止することも認められた。 - 【6】グレートスモーキーマウンテンズ国立公園の歴史
- グレートスモーキーマウンテンズ国立公園の歴史(国立公園局ホームページ)
- 【7】国立公園設立運動
- グレートスモーキーマウンテンズ国立公園の設立には、当時のお金で合計1,000万ドルという巨額の資金が必要であったが、連邦政府が国立公園の設立のために用地を買収することは当時認められていなかった。このため、テネシー州、ノースカロライナ州がそれぞれ200万ドル、一般市民からの寄付が100万ドル、そしてローラ・スペルマン・ロックフェラー記念基金(ロックフェラー・ジュニアの母親を記念して設立された基金)が500万ドルを拠出して、公園用地が買収された。市民の中には、学校の生徒まで含まれたという。
当時、公園予定地には1,200戸もの農場があり、4,000人が居住していたが、公園設立のために立ち退くことになった。補償金を手に喜んだ住人がいた一方で、残りの半数程度は、何らかの抵抗を覚えたという。また、当然ながら、鉄道敷設や作業員用の宿舎建設など、木材伐採のために投資してきた木材会社や製紙会社からは、強い抵抗があったことは言うまでもない。
なお、1920年代前半に全米各地で盛り上がった国立公園設立運動は、グレートスモーキーマウンテンズ、シェナンドア、マンモスケイブなど東部の公園設立の契機ともなったが、単に自然地域の保護だけを目指したものではなかった。国立公園局が設立された1916年から1922年までの間に、アメリカの国立公園の訪問客数は356,097人から1,280,886人に急増。地域の経済界は、先行き不透明で一部の企業の利益にしかならない木材の伐採より、公園設立による地域の安定した経済発展と自然の保護を選んだ。当時の新聞の風刺画を見ると、グレートスモーキーマウンテンズ国立公園の設立提案が金の卵を産む鳥、卵には「観光客」「発展」「進歩」「年間数百万ドル(の収入)」などの文字が描かれ、その傍らには斧を持った「抵抗勢力」が描かれている。その一枚の挿絵からだけでも、当時の国立公園設立運動に寄せた人々の様々な期待が伺われる。ギャトリンバーグなどのグレートスモーキーマウンテンズ国立公園周辺のゲートシティー(入り口集落)は繁栄し、当時の人々の努力がしっかりと実を結んでいることがわかる。
グレートスモーキーマウンテンズ国立公園は1934年設立。ユネスコの生物圏保護区(1976年)及び世界遺産(1983年)にも指定されている。 - 【8】米国地質調査局
- 米国地質調査局(U.S. Geological Survey:USGS)は、米国の自然資源のモニタリング調査などを担当している機関。テネシー大学内に設置されている南部アパラチア地域研究室には、現在3名のUSGS職員が勤務している。
- USGSウェブサイト
- 【9】国立公園及び国有林の過剰な道路建設
- 1936年には、緊急保全委員会(Emergency Conservation Committee)が、「国立公園及び国有林の過剰な道路建設(Roads and more roads in the National Parks and National Forests)」を発表し、国立公園局などによる原生的なウィルダネスの破壊行為を批判した。
<妻の一言>
手作り納豆
公園内での生活も落ち着いてくると、肉好きの私もさすがに焼き魚や味噌汁が恋しくなってきました。野外作業中、オレンジ色の石を見つけては、「焼きタラコのおにぎりが食べたい…」などとつぶやきながら外来種の草を抜いたりしていました。
ワシントンDCで購入してきた食材の中でも、2人の喜びが大きかったのが韓国スーパーで手に入れた納豆。これはマンモスケイブではなかなか手に入りません。何とか冷凍して持ち帰ってきたものの、2人で食べたらあっという間になくなってしまいます。そこで自分たちで納豆を作ってみることにしました。
インターネットの普及は驚く程で、「納豆作り」と入力して検索すると、様々なページが出てきます。いろいろ読んでみると、納豆作りはそれほど難しくないことがわかりました。納豆菌は高温に強いために雑菌が混入しにくく、また種菌は市販の納豆で代用できます。問題は、発酵のための温度管理(摂氏40〜50度)が難しかったことと、アメリカで流通している大豆のほとんどが遺伝子組換え作物だったということでした。とはいえ、もともと日本の大豆はほとんどアメリカからの輸入品。気にしても仕方ありません。
マンモスケイブ国立公園の周りでもあちこちで大豆が栽培されています。ところが、どこのスーパーに行っても枝豆はおろか、乾燥大豆も見当たりませんでした。公園の職員に聞いてみると、「大豆は家畜が食べるものか輸出用であり、食用としては売られていない」とのこと。
夏になると、道路脇一面に枝豆がぶら下がっています。車を止めて引っこ抜きたい衝動に駆られましたが、そんなことをすると「銃で撃たれる」そうです。方々探してみると、乾燥大豆がアジア系食品を扱うマーケットで、1ポンド(約450グラム)1ドルちょっとで売られていました。何とカリフォルニア産(!)です。ちなみに、枝豆も冷凍食品としてなら一般のスーパーで購入が可能でした。殻つき、殻なしがあり、同じ量入って値段は同じ! 原料はタダ同然ということでしょうか。
温度管理は、ホームページのアイデアを借用して、熱湯を入れたペットボトルを使うことにしました。発泡スチロール製のクーラーボックスに、熱湯を入れたペットボトルを2本入れると4時間ほど保温されます。4時間ごとの交換が面倒でしたが、後日、スリフトショップ(募金目的のリサイクルショップのような店)で購入したろうそく型のランプを使うようになってからだいぶ楽になりました。7Wの電球をつけて2日間放置しておくだけで、しっかり発酵が進むようになりました。時々蓋を開けると、強烈なアンモニア臭に目を開けていることができないほどです。さすがにルームメイトは驚いたようで、狼狽しながら私たちのところに駆けつけると、「どうもオレの部屋から変なにおいがしているようなんだ。申し訳ない」と言い出しました。どんな部屋の使い方をしているかは別として、こちらこそ丁重にお詫びをしなければなりません。それ以降、ルームメイトが外泊する予定を聞いてから大豆を仕込むことにしました。
大豆を炒って使うので、できあがりは多少香ばしい納豆ですが、ちゃんと糸も引いていました。また、1ポンドの乾燥大豆からできる納豆はかなりの量で、マンモスケイブ国立公園に滞在してた間、納豆を切らすことはありませんでした。
納豆作りに味をしめた私たちは、まんじゅう、ヨーグルト、豆腐、さらにおからを使ったベジタブルバーガー、あんパン、うどんと、次々に手作りのレパートリーを広げていくことになりました。どれもこれも、外界からある程度隔絶された国立公園での生活の中で育まれた(?)技術で、英語とは比べものにならないほど上達しました。
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(記事・写真:鈴木 渉)
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〜著者プロフィール〜
鈴木 渉
- 1994年環境庁(当時)に採用され、中部山岳国立公園管理事務所(当時)に配属される。
- 許認可申請書の山と格闘する毎日に、自分勝手に描いていた「野山を駆け回り、国立公園の自然を守る」レンジャー生活とのギャップを実感。
- 事務所での勤務態度に問題があったためか以降なかなか現場に出してもらえない「おちこぼれレンジャー」。
- 2年後地球環境関係部署へ異動し、森林保全、砂漠化対策を担当。
- 1997年に京都で開催された国連気候変動枠組み条約COP3(地球温暖化防止京都会議)に参加(ただし雑用係)。
- 国際会議のダイナミックな雰囲気に圧倒され、これをきっかけに海外研修を志望。
- 公園緑地業務(出向)、自然公園での公共事業、遺伝子組換え生物関係の業務などに従事した後、2003年3月より2年間、JICAの海外長期研修員制度によりアメリカ合衆国の国立公園局及び魚類野生生物局で実務研修
- 帰国後は外来生物法の施行や、第3次生物多様性国家戦略の策定、生物多様性条約COP10の開催と生物多様性の広報、民間参画などに携わる。
- その間、仙台にある東北地方環境事務所に異動し、久しぶりに国立公園の保全整備に従事するも1年間で本省に出戻り。
- その後11か月間の生物多様性センター勤務を経て国連大学高等研究所に出向。
- 現在は同研究所内にあるSATOYAMAイニシアティブ国際パートナーシップ事務局に勤務。週末、埼玉県内の里山で畑作ボランティアに参加することが楽しみ。