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環境さんぽ道

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様々な分野でご活躍されている方々の環境にまつわるエッセイをご紹介するコーナーです。

No.044

Issued: 2015.08.11

スパゲッティ・ミートソース・コソボ停電風

柳澤寿男(やなぎさわとしお)さん

柳澤 寿男(やなぎさわ としお)さん
指揮者。1971年長野県生まれ。
パリ・エコール・ノルマル音楽院オーケストラ指揮科に学び、佐渡裕、大野和士、ジェイムズ・レヴァイン、クルト・マズアなどに師事。2007年、バルカンの民族共栄を願ってバルカン室内管弦楽団を設立。同年「ニューズウィーク日本版・世界が尊敬する日本人100」に選出。2009年、バルカン半島の民族対立の象徴の地のひとつとも言えるコソボ北部のミトロヴィッツァで、UNDP国連開発計画、KFOR国際安全保障部隊、コソボ警察などの協力を受け、歴史的演奏会を実現し大成功を収めた。
2013年から世界平和コンサートへの道プロジェクトが開始され、各地でバルカン室内管弦楽団の来日公演などを行い、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件から100年の節目に、最終公演としてサラエボ国立劇場でヨーロッパの共通国歌とも言われ第九平和祈念コンサートを開催。著書に「戦場のタクト」〜戦地で生まれた奇跡の管弦楽団(実業之日本社)。
現在、バルカン室内管弦楽団音楽監督、コソボフィルハーモニー交響楽団首席指揮者、ベオグラード・シンフォニエッタ名誉首席指揮者、ニーシュ交響楽団首席客演指揮者。
HP http://www.marscompany-balkan.com/
弾痕が残るコンサートホール

弾痕が残るコンサートホール

 私がコソボフィル首席指揮者就任当時の2007年、コソボでは一日の3分の1が停電だった。
 リハーサルを終え、私は建物を出た。外を支配しているのは、ずっしりとした重い暗闇だ。その暗闇の中を歩いて自宅アパートまで帰る。ときおり通る車のライトだけが頼りだ。よく見ると、雑貨屋や床屋、カフェがわずかなロウソクの明かりを頼りに営業をつづけている。床屋はハサミを使うのに、こんなに暗くて大丈夫なんだろうかと心配してしまう。断水も一日の3分の1ほどだ。電力がストップしてしまうと、水をくみあげるポンプもストップするため、タンクに水があっても断水になってしまうのだ。
 帰り道、雑貨屋に寄った。だが、暗くて商品が見えない。パスタとミートソースの缶詰、それにミネラルウォーターをなんとか探りあてると、突然、暗闇から手が出てきて驚いた。店主が「袋に入れてあげよう」と言った。気を利かせてくれたのだろうが、暗闇で視界が狭いところへ突然手が出てくると本当にびっくりする。
 コソボは勝手にユーロを使っているわけだが、そのせいか古い紙幣も多い。なかにはセロテープで貼りあわせてある完全に真っ二つに破れた紙幣もある。そういうお札を他店で使おうとしても無駄だ。嫌な顔をされた挙げ句、突きかえされるのがオチである。他国であればなおさらだ。会計をしていると、おつりで五ユーロ札を渡された。そのお札がまさにセロテープで貼りあわせてある紙幣だった。これが来たらトランプでババを引いたようなものだ。その店で他のものを買い、お札をくずす必要がある。
 「そうだ、ロウソク買うのを忘れてた」と言いつつロウソクを追加し、セロテープ紙幣をくずした。

 自宅アパートはプリシュティナの下町、路地を進んでいった途中の小さな煙草屋の二階にあった。コソボフィルから歩いて二十分くらいの距離だ。
 自宅アパートに到着すると、まずは鉄格子のシャッター、つづいて目の前のドア、さらに階段前のドア、階段を昇ったところにあるドアを開け、人がひとりやっと通れる狭い廊下沿いに小さなキッチンを右手に見ながらようやく自室のドアの前に来る。これで鍵が五つというわけ。
 部屋は三畳程度の広さで、部屋の先には小さな窓がひとつあり厳重な鉄格子に守られていた。部屋というより広めの物置きといっていい感じで、中央に堂々と置かれたソファがベッド替わりだった。
 電気のスイッチを入れても、うんともすんとも言わなかった。やはり停電はつづいていた。コソボの停電は容赦なく頻繁にやってくる。私はいつものようにロウソクをともした。上着も脱がずにソファに腰をおろした。コソボは内陸にあるため、冬はマイナス十度以下、夏は四十度以上という過酷な気温に耐えなければならない。特に冬は部屋のなかでも外出時の服装のままでいることになる。
 それから私は小さな机にロウソクを立て、楽譜を読んだ。とはいえ実際にやってみるとろうそくで楽譜を読むのは、全体がよく見えない上に集中力も上がらず、かなり効率が悪い。
 二時間ほどして待ちに待った電気が点いた。ロウソクの火を素早く消し、夕食の準備にとりかかった。料理は、またいつ停電するかわからないので、手早くできるものに限られる。
 水道の蛇口をひねってみると、断水していた。私は鍋にミネラルウォーターを注ぎ、携帯用電気コンロに乗せた。ガスが通っていないので、電気コンロしか使えないのだ。少なくともお湯が沸くまでは停電しないでくれよ、と願う。すると、うまい具合にお湯が沸いた。私はそのお湯でパスタを茹でた。茹であがる直前に再び停電したが、むろん想定内。少しふやかせば、なんとかいけるはずだ。私はロウソクに火をともしてから麺を皿にうつし、ミートソースの缶詰を茹で汁の中に入れた。温まったころに取りだし、麺にかける。「スパゲッティ・ミートソース・コソボ停電風」のできあがりだ。もちろん私が命名した。

 コソボで暮らすということは、停電といかに付きあうかということだ。そのため、私は「電気が開通したらやることリスト」と「停電になったらやることリスト」をつくった。
 日本では数十分でできることが、コソボでは2日も3日もかかる。だが、その不便さが、ときに忘れかけていた大切なものを照らしだしてくれることもある。
 コソボフィルの楽団員の家に呼ばれて夕食をともにしたときのことだ。例によって停電になり、ロウソクに火を点けた。すると、壁に楽団員と私のシルエットが映しだされる。壁に浮かびあがった影を観ていると、妙な結束感が湧いてきた。助けあわなくちゃいけない気持ちが強くなってくるのだ。我々が結束しなくてどうする?協力しあわなくちゃいけないんだ。そんな気持ちだ。戦争で生き残った人たちは「おまえも生きていたか」「おまえもか」と過去のつらいページを閉じて、「いろいろあったが、生き残った者はみんなで力を合わせてやっていこう」と結束を固めたのではなかったか。だからこそ今のコソボがあるのではないか。暗くても、人の心と心がつながっていく。
 いや、暗いからこそ、人の心と心がつながっていくのだ。なにごとも不便に思える国で、次の日も次の日も同じ仕事が終わらないことに苛立っている自分を恥じた。日本ではそれこそ分刻みのスケジュールで仕事をこなしているが、ただ時代の速さに振りおとされないようにしているだけではないのか。これまでじっくりと人の目を見て話したことがあっただろうか。  停電のなかでの食事はそんなことを気づかせてくれた。停電もそれほど悪くない。

熱演を終えて

熱演を終えて


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(記事・写真:柳澤寿男)

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