No.056
Issued: 2016.08.10
“住みやすい都市”とは ─メルボルンに学ぶ─
- 下田 明宏(しもだ あきひろ)さん
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工学院大学建築学部まちづくり学科教授。株式会社ディー・エム代表取締役。
1955年東京都文京区生まれ。
専門は、ランドスケープデザイン。地域特性を生かした外部空間のデザインを研究、実践。
趣味は、ネコ、イヌ、花。
イギリスの経済誌「エコノミスト」が、毎年発表する“世界で最も住みやすい都市”ランキングで、この数年連続して第一位を獲得しているのが、オーストラリアのメルボルン市である。例年のトップ10には、オーストラリアやニュージーランド、カナダの都市がランクインする一方で、日本の諸都市は見当たらない。
“住みやすさ”とは、一体、何なのか?エコノミストによれば、“住みやすさ”のランキングは、生活に関わる5つの分野を指標化して、その合計点で決定しているという。その分野とは、安定性(25点)、医療・衛生(20点)、文化・環境(25点)、教育(10点)、インフラ(20点)である。配点に少々異論があるとしても、なるほど、高度な施設や制度が整っている都市は、“住みやすい都市”と言えるだろう。しかし、上記のような指標であれば、日本の諸都市もかなり高い得点を取ることができるはずである。なぜ、トップ10に入ることができないのだろうか?
筆者は、ランドスケープデザインという、街路や公園など、都市の外部空間の設計を専門としている。都市デザインに大きく関わる分野であり、“住みやすい都市”を作ることが目的であると言ってもよい。従って、メルボルンが世界で一番“住みやすい都市”であるならば、その実態は何なのか、大いに関心があった。最新の都市施設や制度が整っているのか、それとも、もっと深い何かがあるのか…。
果たして、メルボルンは、水と緑に恵まれた美しい都市であった。ヤラ川が都市空間の骨格として位置付けられ、ボート、ジョギング、サイクリング、BBQ等、市民の日常的なレクリエーションの場として利用されている。緑の量が圧倒的に多く、まちを歩くことが積極的に快適であった。
中でも、メルボルンの郊外、カンタベリーにある、ビクトリア・アベニューの街並みは、衝撃的であった。日本では、美しい街並みを形成するためには、少なくともいい建築を作らなくてはならない、或いは、建築同士のルール作りをしなくてはならないという概念が一般的である。ところが、ビクトリア・アベニューでは、建築が見えないのである。車道の両側に、緑地と歩道が配置されており、緑地に植栽されているプラタナスの大木(植栽された時は小さかったろうが)が、通り沿いの建築を完全に覆い隠しているのだ。真横を見ると建築は見えるが、色や様式は、バラバラである。バラバラであっても、進行方向を見ると、樹木しか見えず、落ち着いた街並みが形成されている。この基本的な考え方は、ビクトリア・アベニューのみならず、メルボルン全体に浸透しているようであった。
ここで気付いたのだが、“住みやすさ”というのは、結局、施設や制度の“足し算”ではなく、ストレスの“引き算”ではないかということである。つまり、“住みやすい”ということは、要は、“ストレスがない”ということではないか。新国立競技場の例でも明らかであるが、都市空間では、ある人にとっては好ましい施設も、他の人にとってはストレスになることがある。おそらく、メルボルンは、都市の骨格に豊かな水と緑を配置することで、個人の自己主張を緩和し、また、身近なレクリエーションの場としても利用しながら、市民のストレスを軽減し、“住みやすい都市”としての地位を確立したのではないだろうか。
こういう視点で東京を見ると、まだまだ、施設を作るのに必死であり、自己主張を緩和し、癒しのある環境を作るという考えが足りないことに気付くのである。渋滞も発生していないのに、既にある街路樹を伐採してまで、道路の拡幅や延伸整備が行われている。主要な河川は、高速道路に蓋をされ、とても身近なレクリエーションの場としては使えそうにない。そして、身勝手な建築、屋外広告、看板、ノボリ…。まちの中を少し移動するだけで、イライラしてしまうことはないだろうか。将来的に、東京が“住みやすい都市”としての地位を獲得するためには、おそらく高度な施設整備よりも、ストレスを減らす工夫のほうが重要ではないかと感じている今日この頃である。
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(記事・写真:下田 明宏)
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