No.010
Issued: 2012.10.17
尾瀬をめぐる映像と記憶、そして未来
- 関 礼子さん
- 社会学者。立教大学教授。
北海道・阿寒国立公園内の屈斜路湖畔出身。
公害・自然保護問題研究ほか、地域の環境史をフィールドから紡いでいます。
尾瀬は自然保護運動の原点と言われます。ダム建設計画反対の運動があり、観光道路建設反対の運動がありました。尾瀬は自然保護の象徴になり、ゴミの持ち帰り運動、マイカー規制、木道の整備と植生回復作業、山小屋での排水対策(石鹸・シャンプーの利用禁止)など、自然保護の最先端の動きを生み出してきました。そんな尾瀬の戦前から現在までの映像をシャワーのように浴び、「タイムトリップ」する経験に恵まれました【1】。
クレパスのような色彩のカラー・フィルムに、木道がほとんど敷設されていなかった頃の尾瀬が記録されています。1951年制作の『尾瀬沼・尾瀬ヶ原』。塚本閣治(1896〜1965)の山岳映画です。湿原を流れる川で魚釣りをし、スポンジのように揺れる湿原を歩き、浮き島に乗って遊ぶ人がいます。夢のような風景です。
10年後の1961年。同じく塚本の『尾瀬』では、木道を行く多くのハイカー、「尾瀬自然指導員」の腕章をした山小屋主人や「折らない、捕らない、そして摘むまい 高山植物 みんなの尾瀬を守りましょう」という看板がみえます。群馬県片品村側から大勢のハイカーが入り、「天上の楽園」だったアヤメ平が踏み荒らされた頃です。
それからさらに10年余り。1972年の『新日本紀行 出作りの頃』(NHK番組)では、福島県檜枝岐村側が尾瀬人気を背景にして観光の村へと変わろうとする風景が記録されています。以後、四季を通して刻々と変わる尾瀬の自然が、尾瀬に生きる人々の営みが、尾瀬の自然保護の取組みが、数多くの番組となりました。そうした番組は、旅情をかきたてつつ、自然や生態系を守る意識を育くもうとするものでした。
「タイムトリップ」したのは、私だけではありません。檜枝岐村の星長一さんと平野勝さんがこの旅の同伴者でした。年長の星さんは、無声の山岳映画に、尾瀬の記憶のナレーションを付してくれました。「この頃、リュウキンカの葉っぱを天ぷらにして食べた」「浮き島に乗ってみんなが遊ぶようになると、島の真ん中が禿げてきた」「飯粒で魚を釣って遊んだ」「川には丸太がかけてあって、橋のかわり」など、尾瀬と親しく生きてきた人生の記憶です。時に、私より少し若い平野さんから、「こんな映像は見たことがない」「あそこのバンバ(おばあちゃん)の若い頃だ」と、驚きの声があがりました。そして、こうしたフィルムや番組映像を村のみんなに見せたいものだと3人で語りました。
この「上映会」は、まだ実現できていませんが、願いかなって実現できたらどんなにか素晴らしことでしょうか。尾瀬はハイカー(観光客)が行く場所で、身近なところではないと思っている村の子どもたちに、かつて子どもだった大人たちは何を語って聞かせるのでしょう。そして、子どもたちは大人たちから何を学ぶのでしょう。
映像から、木道のはるか彼方にあって、決して見には行けないのだけれども、確かに自分たちが守っている尾瀬のシルエットを感じるかもしれません。尾瀬が自然保護の原点としてシンボル化される過程を見て、「尾瀬のある村」に生まれたことを、くすぐったく感じるかもしれません。現在の「観光の村」がどのような思いでつくられてきたか、何を大切にすべきか、改めて気付くかもしれません。
映像は記憶を呼び起こし、記憶をつないでいく触媒にもなります。子どもたちが映像を通して世代の記憶を引き継ぎ、「尾瀬のある村」の自画像を未来に描く力に変えていくならば、映像は地域の共有財として大きな可能性を持つのではないかと思うのです。
注釈
- 【1】
- NHKアーカイブストライアル研究第3期における番組視聴。この研究のなかで、NHK番組のみならず、そのままだったら散逸してしまったかもしれない外部制作の映像に出合うことができた。
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記事・写真:関 礼子
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