No.008
Issued: 2012.08.10
荒地を切り開く─適地適木─
- 石井 好彦(いしい よしひこ)さん
- 福岡教育大学名誉教授
嘗ての専攻分野:人類学、健康体力論、医学博士(環境衛生学)
森林インストラクター
前回は私たち(家内と私)が山里に移り住んだ経緯とその生活の一部を紹介しました。私たちの山の家の脇の谷底を流れる渓流の川上方向に、英彦山(ひこさん)という、今ではほとんど忘れ去られた名山が聳えています。古来、天狗の棲む山として、西国の修験道を代表する山として、全国的にその名が知られていました。歌舞伎や文楽に詳しい方なら、江戸期の大ヒット作「彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)」やその主人公「毛谷村六助(けやむらろくすけ)」をよくご存知のはずです。
家の近くに坂本という地名が残っています。坂の下(もと)、上り参道の起点といった意味です。古文書から推定される参詣者は年間数十万人に達したといわれています。人々の往来とともに、河川周辺の堆積地が開拓されて米作農業が盛んになり、昭和の高度成長期の始まりの頃まで、農林業を基盤とする生活が維持されてきました。
私たちの川上側の隣地も、川端(川のすぐ脇の低地)から棚田状に開墾された農地でした。20年ほど前に所有者が離農し、高齢化・過疎化の影響で耕作が放棄され、その間に周囲から竹が侵入して藪状の荒地と化してしまいました。竹といえばモウソウチク(孟宗竹)やマダケ(真竹)を想像するかもしれませんが、この竹藪の主体はメダケ(女竹)といい、高さ5メートルにも達するものから笹のようなものまで、大小さまざまで極度に密生します。これにクズ、ヤマフジを始めとする多種のつる性植物が竹の棹や枝に巻き付き、互いに網状にからまって竹を覆い一体化します。風雪などで竹が傾くと、斜めに横に曲がったままになります。日も射さず、湿って薄暗く、ほとんど視界も効かず、下草も生えない空間は数百坪に広がっていました。「後は野となれ山となれ」といいますが、野原にも森にも戻らない荒地です。
ここを原状に復すべく知人に相談すると、人を雇う、重機を入れる、除草剤を撒くなどと答えが返ってきますが、どれも無理があります。生活習慣病の一因は運動不足などと言ってきた手前、自力決行以外に手はありません。結局、実働1週間弱で何とか作業終了にこぎつけました。
鉈(なた)、鋸、刈払い機などを携えて切り込んだ当初は「群盲象を撫でる」類で全体像が見えず当惑しましたが、作業に慣れ切り進むうち、不意に大岩や石垣などに行き当たります。写真1は明治期以降に組まれたと思われる高さ2.5メートルくらいのよくできた石垣で、当時の農民の技能と努力がしのばれます。岩や大石をそのまま利用した擁壁(ようへき)もあります。岩の陥凹部(かんおうぶ)とその周囲の密生した竹、水平に張り出した竹の上に枯れ枝・枯れ葉が積もった天然の庇(ひさし)、これらが一体となった巣窟が大小多数見られます(写真2)。ここは野生動物のすみかとして絶好の場所であったに違いありません。
ほとんどの植物は発芽はしても育ちませんが、チャ(茶)やヤブツバキ(藪椿)のように藪のなかで生長する樹木が見られます。茶にはヤブキタという品種があり、命名した先人の観察眼に敬服させられます。
樹木には生育する土地の条件により適・不適があり、良い組み合わせを「適地適木」といいます。
せっかく切り開いた土地なので藪に戻らないよう、植樹を計画しています。何を植えるか想い巡らすのも楽しいことです。これまでに植えた果樹、花木、御神木等々、合計すると数百本に達します。その中には土地に合わず、栽培を断念したものも多くありました。この地に適した樹木といえばまずシャクナゲが挙げられましょう。前回掲げた山の写真で、英彦山の左(東)側に立つ3ピークの奇峰(鷹ノ巣山)のさらに左手に、ツクシシャクナゲの自生地(国天然記念物)があります。この一帯は気候・土壌ともに適しているのでしょう。実際に、北海道から屋久島までの国内原種シャクナゲがここで栽培でき、交配種を含めて、今まで植えたほぼ全ての種類が根付いています。(写真3)。
花や果実や紅葉をめでるのも良いですが、春先の新梢(しんしょう)がぐんぐん伸びて力強く展葉(てんよう)する様は生命力の発露そのもので、元気を運んでくれます。深刻な過疎化に直面する全国の山里に元気が戻るよう願いながら、本文を書きしるしました。
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記事・写真:石井好彦
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