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No.161

Issued: 2009.04.09

南アルプスのふもとから ──新しい自然保護官事務所に着任して── 実録・環境省レンジャーものがたり(第5回)

目次
南アルプスは地味?
成長期の魅力
シカの食圧の影響
よりよい南アルプス像は話し合いから

南アルプス自然保護官事務所開所式

 2008年10月1日、南アルプス自然保護官事務所が開設されました。これで、全国29箇所の国立公園のすべてに専任の自然保護官が配属されたことになります。
 これまで、南アルプスの自然保護関連事務は、他地区の自然保護官が兼任してきました。つまり南アルプス地域には自然保護官事務所がないという状況が続いていたわけですが、南アルプスの地元自治体で構成される「南アルプス世界遺産登録推進協議会」の強い働きかけと関係各位の力強い協力を得て、専任自然保護官の配置と自然保護官事務所の開設に至ったのです。
 「南アルプス」と一口にいっても、その地域は深い山脈をまたいで長野県、山梨県、静岡県の3県に渡り、1箇所にいながら全域を把握するのは容易ではありません。このため、事務所は各県に設置され、山梨県南アルプス市に南アルプス自然保護官事務所の本拠地が、長野県伊那市と静岡県静岡市にはそれぞれ事務室が置かれました。それぞれ所在各市の市庁舎内の部屋をお借りしていて、結構な山の中に位置しています。保護官は、これら3事務所を定期的に行き来しながら業務を開始しています。
 全国各地の自然保護官事務所は、今や多くが自前の事務所建物を構えていますが、国立公園管理員(現在の自然保護官)の草創期には自治体執務室等の一角を借りていたといい、当事務所は比較的昔の事務所の様子に近いといえます。事務所を出てすぐ地元の方に会えるこのロケーションはかなりよいと思います。

南アルプスは地味?

 ところで、南アルプスというと、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。アクセスが比較的容易で華のある北アルプスには近年の登山人気も相まって大勢の登山者が集まっています。登山者でなくても、白馬や上高地などは大抵の人が知っているのではないでしょうか。これに比べると、「南アルプスに登ったことがある」「その山を知っている」という人の数はとたんに少なくなるようです。
 世間一般の人たちが「南アルプス」と聞いてイメージするのは、“南アルプスの天然水”など、山そのものよりも豊富で清涼な水に象徴される区域全体の自然そのものなのかも知れません。
 北は甲斐駒ケ岳(東駒ケ岳)、仙丈ケ岳、鳳凰三山、白峰三山から、塩見岳、荒川岳、赤石岳、聖岳、茶臼岳、そして南端の光岳へと続く南アルプス。日本第二の高峰北岳(3193m)を始め3,000m級の高峰が10座も連なる実力派の山域にもかかわらず、この地味さはどこからくるのでしょうか。
 登山道までのアクセスが長い上にその山が大きく、相応の日数がなければ登山できないこと。また、突出した尖峰がなく山容が地味なこと。こうした理由であまり人が集中しなかったのではないでしょうか。南アルプスファンには納得がいかないかも知れないこの評価も、おかげで南アルプスが過度な開発から免れてきたというプラス面があることも動かしがたい事実です。

御野立所から見た北岳と間の岳

山伏から望む南アルプス南部


成長期の魅力

父島の玄関口である二見湾

 一方で、これらの“地味さ”を、逆に“魅力”だという根強い南アルプスファンもいます。
 南アルプスの魅力は、大きな山体とゆったり連なる稜線、山麓に降りるにつれ谷壁の傾斜が険しくなる深いV字の渓谷美で構成される山岳景観、そして伸びやかなお花畑、人が少なくあまり手が入っていない静かさにこそあるといえます。


お花畑

鮮やかに咲く


 キタダケソウを始めとする固有種、固有亜種も多く生育・生息しています。また、絶滅のおそれのあるライチョウや高山では馴染みのハイマツは、その分布の南限を南アルプスにしています。

キタダケソウ

仙丈ヶ岳のライチョウ


 南アルプスの独特な山岳景観は、その形成過程から説明されます。南アルプスはプレートの沈み込みに伴う付加体で生成されました。約100万年前から急速に隆起し、今も年間約4mmという速いスピードで隆起を続けているといわれています。そしてこれに伴い、やはり早い速度で崩壊もし続けています。ほぼ同じ高さの山が並び、山頂部が緩やかな現在の地形は、隆起しつつある山が自重や雨などで崩壊することで平坦化し、一方で谷が土砂で埋まって、平原のような山頂(準平原)ができた状態であるという説や、気温が0℃近くで推移するため、水の凍結破砕作用等で土砂が移動し山が崩れることで形成されたという説があります。こうして、隆起を続ける山ならではの独特な山容が形成されているわけです。
 氷河で削られてできたカールなどの氷河地形も見られますが、あまり多くはありません。氷河地形の多い北アルプスや本場ヨーロッパアルプスとはまったく質の違う山岳景観です。
 また、中央構造線と糸魚川-静岡構造線に挟まれていて、断層露頭などでは南アルプスの形成過程が目の当たりにできるのも興味深い点です。
 地元小中学校の先生が、“目先の短いスパンだけを見ながら生きるのではなく、悠久の自然の時間の流れを感じること”の大切さと、“それを感じられる南アルプスの存在意義”を語り、「それらを子どもたちにも感じてほしい」と熱心に語る言葉と姿勢には、強く共感させられます。
 ところが、こうして人為的な開発から免れ、愛されてきた南アルプスの自然にも、ある脅威が迫っています。

シカの食圧の影響

 最近の南アルプスでは、シカ等による高山植物等への被害(食圧)が深刻です。シカは、昔から棲息していましたが、1990年代末頃から急激に増え、影響が顕著になり始めたそうです。
 シカは柔らかい高山植物を好んで食べる一方、マルバダケブキなどの固い植物は食べないので、シカの食圧を受けた場所にマルバダケブキ等が侵入して、植生が劇的に変化してきています。

H9.8.17薊畑のお花畑(元島清人氏提供)

マルバダケフキの群生(中部森林管理局提供)


樹皮剥ぎ

 植生の変化だけではありません。シカの食性は環境に適応し、食べるものがなくなれば、普段は食べない植物も食べ始めたり、さらに草を食べ尽くすと樹木の皮を剥いで食べたりもします。南アルプスでも、こうした「樹皮剥ぎ」が見られるようになっています。
 食圧が過度にかかり続ければ、植生が貧弱化し、土壌の流出なども懸念されます。不可逆的な影響が生じる前に、早急な対策が必要です。


 この変化の原因がシカなどの獣だけにあるという科学的な判断は出ていませんので、早計に決め付けるのは危険ですが、一方では疑われる原因に対する早急な対策も必要です。地元の自治体、ボランティア団体や協議会は既に、守るべき高山植物帯の周囲に防鹿柵を設置しています。環境省も、2008年度に仙丈ケ岳馬ノ背に防鹿柵を設置しました。効果についてモニタリングしていく予定です。
 柵は主に登山道沿いに設置しています。シカの跳躍力を考えて、柵は高さ2m以上もあります。金網製の柵では、冬季に雪の重みで歪んでしまうため、ネット柵を使用したり、場所によって冬前にネットを撤去したりと改良を試み、また鳥がかかりにくいように網の色を工夫する配慮もしています。
 周辺の山小屋の方々にも随分とご協力をいただいています。
 柵の効果はこれから確認していくことになりますが、シカが柵の中に入れず周辺を徘徊していたとか、柵の中の草丈が周辺より高くなっているとか、その効果の一端は見えてきています。


シカ柵の設置

 これらの柵の設置や冬支度は、関係機関や地元ボランティアの方が参加して作業しています。時に重い柵を運んだりと、楽な作業ではありません。
 私は冬支度の作業から参加することになりましたが、印象的なのは参加した人々の姿勢でした。山に集まって作業をして、話して、日常と違う時間を過ごすことが楽しいと、ある参加者が力説していました。まず麓から柵地点まで山を登ってきて、作業。日中は、秋も半ばを過ぎた寒空の下で参加者持参のおでんを囲み、夜は山小屋で山の話から与太話まで延々と話し続けます。
 自然を守りたいという気持ちが原動力としてあるのはもちろんですが、そこには、自然保護だけを目的とする“同舟者”という以上の、山を楽しむ人々のつながりを生み出す、弾力的で広がりのある輪ができつつあるように感じられます。これは取り組みのきっかけをつくった方々を始めとする参加者全員の熱意と対話の賜物だといえるのではないでしょうか。


 さて、お気づきだと思いますが、防鹿柵は今まさに起こりつつある被害を食い止めるのには有効な反面、保護できる面積には限界があり、対症療法的な対策に過ぎません。
 南アルプス周辺では、狩猟や有害鳥獣対策としてシカの捕獲が行われていますが、その頭数は増え続けているといわれます。
 また、かつては標高の低い地域で活動していたシカですが、最近は標高の高い地域にも上がってきています。2008年には標高約3,000m付近でも確認されたという情報が寄せられました。特に脆弱な山頂付近では固有種の生息・生育域への影響が心配されます。これからは長期的な視野も持って対策を講じることが必要です。
 環境省では、2008年度から「南アルプス国立公園高山植物等保全対策検討業務」を実施しています。シカの食圧対策にかかる基礎的な資料の収集とともに、影響の把握や予測評価を行い、保全対策の基本的な計画を定め、取り組みを進めたいと考えています。
 シカ対策は南アルプスにおける取り組みの一部に過ぎませんが、様々な取り組みを通して南アルプスの自然の保全に役立っていければと思っています。


よりよい南アルプス像は話し合いから

 南アルプスを守っていく上で大切なのは、これまでかかわりを持ってきた地元の方々の存在と思いです。南アルプスの周囲には、生き生きと熱心に、南アルプスとの関わりを大事にしながら楽しみ、そして今後どのように自然を守りかつ利用していくのがよいか、どう関わっていきたいか、自分の考えを持ち、活動されている方が多数います。これには強く勇気付けられます。
 南アルプスには鉱山や林業の歴史もあり、人との関わりの中で守られてきた山でもあります。今後、どのような南アルプス像を目指していくか、何が“よい”方向なのかを話し合いながら、協力していくことなくして自然保護は実現しません。そうした関係が築けるように、南アルプス自然保護官として、これから頑張っていきたいと思っています。

 私は、まだ学生だった頃に初めての縦走登山で南アルプスを歩きました。それから10年後、2008年10月にその南アルプスに里帰りするように今度は自然保護官として赴任してから6ヶ月が経ちました。赴任直後に見た甲府盆地から見上げた夕照の南アルプスの山並みの美しさと、開所式に集った関係者の笑顔を忘れずに、コツコツと頑張っていきたいと決意を新たにしています。

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(記事・写真:南アルプス自然保護官事務所 宮澤 泰子)

〜著者プロフィール〜

2004年環境省に入省。1年目は本省自然環境局自然環境計画課に配属され、課の窓口業務を勤めた後、沖縄奄美自然環境事務所(当時)に異動し約1年間勤務。
その後、本省自然環境局野生生物課計画係で鳥獣保護区等の指定、風力発電施設によるバードストライク、野生生物関係の環境影響評価などに係る業務を担当。
2008年10月に関東地方環境事務所南アルプス自然保護官事務所に着任し、初めての現地自然保護官事務所での仕事に向き合っている。

※掲載記事の内容や意見等はすべて執筆者個人に属し、EICネットまたは一般財団法人環境イノベーション情報機構の公式見解を示すものではありません。