No.008
Issued: 2012.08.06
モンベル辰野会長が語る、自然に遊び、自然に学んだ人生
実施日時:平成24年7月19日(木)
ゲスト:辰野勇(たつのいさむ)さん
聞き手:一般財団法人環境イノベーション情報機構 理事長 大塚柳太郎
- 株式会社モンベル代表取締役会長、冒険家、野外活動家。
- 1969年アイガー北壁を最年少登攀、日本初のロッククライミングスクール開校、障害者カヌー支援、阪神大震災・東日本大震災「アウトドア義援隊」による支援などでも活躍。
子どもの頃は身体が弱く、遠足の金剛山登山にも連れて行ってもらえなかった
大塚理事長(以下、大塚)― 本日はお忙しい中、EICネット・エコチャレンジャーのインタビューに応じていただきありがとうございます。
辰野さんは登山家として素晴らしい活躍をされ、さらにはカヌーやカヤックを操り、大きなスケールで自然を体験されると同時に、多くの人びとが自然と接する機会をつくりだそうとさまざまな活動をされておられます。今日は、環境を考える原点ともいえる自然とどう付き合うべきかなど、豊富な体験談を交えてお伺いできればと思っています。
辰野さんは22歳のとき、アイガー北壁に最年少で登攀(とうはん)されました。その快挙は私の記憶にも強く残っているのですが、その前のことから話をはじめていただけますか。
辰野会長― 僕は大阪府の堺市に生まれたのですが、子どものころは身体が弱かった。小学生のとき、大阪府で一番高い金剛山の登山に連れて行ってもらえなかったくらいです。
大塚― ちょっと驚きました。
辰野会長― 校医さんの判断で、君は居残りなさいと言われたのです。友達は楽しそうに行くのに、すごく口惜しくて。山への思いはそのころから募るようになりました。中学校に入ったころから少し身体も強くなり、近くの里山に登りはじめました。そうしているうちに、高校1年生の国語の教科書で、オーストリアの登山家ハインリッヒ・ハラーの『白い蜘蛛』の一節に出会いました。『白い蜘蛛』とは、ヨーロッパアルプスの最難関といわれるアイガー北壁の途中にある難所、下から見るとまるで白い蜘蛛が手足を拡げたように見える氷壁のことです。その氷壁を登っている最中に雪崩に遭遇したり、ハラハラドキドキする内容でした。ハラーたちは初登攀を果たすわけで、子ども心に憧れたのです。いつか、この山に登ってみたいと一念発起したわけです。
アイガー北壁を最年少登攀
大塚― 中学生・高校生のころに、『白い蜘蛛』をはじめいろいろな刺激を受けたのですね。日本初のクライミングスクールを創ったり、あるいはモンベルを創業され多くの方に登山を楽しんでもらおうと、そのころから考えられていたのでしょうか。
辰野会長― 高校1年生のとき、さきほどの本に出会っても、当時は登山を教えてくれるような先輩もいなかったし、ましてや登山学校などは一切ありませんでした。自分で見よう見まねで工夫しながら、ロッククライミングはどういうものかを学習したのです。5年後に、素晴らしいパートナーに巡り会って、アイガー北壁を日本人では二番目に登攀しました。ハインリッヒ・ハラーから数えて60番目のパーティーですが、生きて2人が登攀したのは実は僕らがはじめてでした。それまで60人のクライマーが亡くなっていましたので、確率は2分の1だったのです。当時、最年少の22歳といわれましたが、正確には21歳でした。7月31日が僕の誕生日で、登攀したのが7月21日でしたから。
最年少で登ったということもあって、おこがましくも「天狗」になったというか、登山技術を教えたいと思いたったのです。学校という形できちっとカリキュラムを組み、山登りの理論から伝えたいと、ロッククライミングスクールをはじめました。
大塚― 最初のころはどうでしたか。
辰野会長― ロッククライミングスクールに最初に申し込んできたのが、実は今モンベルの社長をしている真崎文明です。彼と一緒に創業にあたったのです。そういう情熱をもった人は当時もいたのですね。そういう人たちに、登山学校は必要と手応えを感じました。
山の技術や歩き方の習得に対価を支払うという概念が、当時はなかった
大塚― ご苦労もいろいろとあったと思いますが、印象に残っていることをお聞かせください。
辰野会長― お金を払って山登りを教えてもらうということ自体、そういう概念がなかったのですよ。テントや寝袋にはお金を払うけれども、山の技術とか、歩き方とか、そういうことのためにお金を払うという概念がなかったのです。それをまずは理解していただく、逆に言うと、それに応えるだけのノウハウを我々がしっかりともたないとダメだということで、がんばったのを覚えています。
大塚― 辰野さんらが努力された結果ともいえるのでしょうが、今では山に登る人はずいぶん増え、裾野が広がっていると思います。ところで、マスコミでは、山ガールとか、中高年登山とかがよく取り上げられています。良い面、悪い面を含めいろいろに語られますが、パイオニアの目からみて、一般の人びとの山との付き合い方をどのように感じておられますか。
辰野会長― 時代、時代に、ブームという言われ方がされてきました。ある時は第一次登山ブーム、また第二次登山ブーム、それから中高年登山ブームとか、今は山ガールですか。世間でそういわれますけれども、半世紀近く山とかかわってきた僕としては、あまり意識したことはありません。
端的に申し上げると、あれだけ素晴らしいところに行かない方がおかしいと思っています。男性であろうと、女性であろうと、おとなであろうと、子どもであろうと、高齢者であろうと、あの素晴らしい自然の中に身をおいて、不快な思いをする人はいないはずです。中高年登山ブームとか、山ガールとかいうと、山に行く人びとを決めつけているみたいで困ったものです。そうではなく、自然というものは、あまねくすべての人びとが集う場なのです。このことは、この先、何十年何百年経っても変わらないと思います。
東洋人は西洋人とは違う自然観を持っている
大塚― 素晴らしい自然ということですが、日本人がもつ自然に対する考え方は、外国での経験からみて独特でしょうか。
辰野会長― そう思います。実はモンベル(モンベル・コリア)は韓国に125の店舗があります。韓国人は人口が6千万人足らずなのに、1千万人以上の人びとが少なくとも月に1回は登山を楽しんでいます。日本以上の登山ブームです。その状況をみていても、日本人を含む東洋人が西洋人とは違う自然観をもっていると感じますね。
僕自身のことに戻りますが、アイガー北壁やマッターホルン北壁などアルプスで先鋭的な登山をしたり、ヒマラヤの未踏峰を登ったりするのは、山に対し自分の力を試したいという、いわば挑戦であり、西洋的な考え方に近いかなと感じています。僕は若いころは山や岩を見ると、どうやって登ろうかとばかり考えたのですが、最近は歳とともに足元を見るようになり、草花を愛でるとか、自然をゆったりと時間をかけて楽しむという風に変わってきましたね。
大塚― 辰野さんからそういわれると、多くの人びとの自然観も変わるかもしれません。
辰野会長― 厳しい岩壁を登ることはアルピニズムであり、ヨーロッパではじまった概念ですね。日本は歴史的に、剣岳とか立山に代表されるように宗教的な側面が強く、自らを鍛える、自らの精神的なものを鍛えるという概念をもったり、八百万の神ではないですけれども、一木一草に神が宿るという自然観をもっているのでしょう。
大塚― 山との付き合い方には、山野草を見つめるようなことも含めて、その人その人なりのやり方があるということですね。
辰野会長― 十人いれば十の、百人いれば百の楽しみ方があると思います。自分の価値観を他人に押しつけるのはよくありません。ただひとつ言えることは、登山は自然の中での営みですから、すべての方が危険に対する警戒心をもつ必要があります。自然の中に身を置くことは、屋根や天井に守られているわけではないのですから、自分の力で、自然の変化に対応していくことを身につけなくてはいけません。
大塚― 自然の中で時間を過ごすことが、それぞれの人の自然観に基づくとしても、自分に対しては自分で責任をもちなさいと。
辰野会長― そういうことですね。冒頭でも話しましたロッククライミングスクールをはじめたとき、自己責任という概念をもってもらうことを大きなテーマにしていました。僕が今でも気になっているのは、山登りのツアーに参加したら、苦労せずに安全に楽しめると、まるで遊園地のジェットコースターに乗るような感覚で行かれることです。こう言うとちょっと語弊があるかもしれませんが、最近の山ガールという方々の中に、そういう軽い気持ちをもたれる可能性がないとはいえないと心配しています。我々は、山に行く方をお客様としてビジネスをしていますから、機会がある限り、このことへの関心をもちつづけたいと思っています。
「カヌーを漕いでいるとき、障害を忘れていた」──自然の中には意外とバリアがないことを教えられた一言
大塚― 話が変わりますが、辰野さんがカヌーやカヤックをされるのは、山登りと共通するモチベーションがあるからでしょうか。
辰野会長― 27歳のころ、山の仲間が遭難して亡くなりました。目の前で命を落としていくのを見て、ちょっと気持ちが萎えているときに、人の誘いでカヌーに出会ったのです。『山と渓谷』という雑誌の当時の川崎社長に、「山と渓谷と言いながら山しか載せていないじゃないですか、渓谷も扱った方がいいんじゃないですか」と言ったこともあるのですが、素晴らしい山があれば素晴らしい川もあるのです。カヌーに乗って水面から陸を見上げたときの景色は、陸から見下ろした景色とまったく違うのです。その素晴らしさに出会い、カヌーにのめり込んでいったのです。山が危ないからと思ってカヌーをはじめたのに、気がついたらカヌーでもヘルメットをかぶり、黒部の滝を飛び降りるというとんでもないこともしたのですが。
大塚― 辰野さんは社会的な活動にも多くの時間をお使いになり、そのひとつとして、身体に障害をもつ方への支援もされています。思い出に残っていることをお話しください。
辰野会長― 障害者に対する支援といわれると、高邁な理念をもっているように聞こえますが、実はそうではありません。アイガー北壁に登ったこと、黒部の滝を飛び降りたことと同じように、自分の好奇心に基づいているというほうがあっています。冒険精神をもちながらも、歳とともに自分の力に限界が出てきたとき、たまたま障害者の方からカヌーをやりたいという話を受け、カヌーは障害者が健常者に交ざって競えるスポーツじゃないかと思ったのです。歩かなくていいわけですから。
それで、障害者へのカヌーの指導をはじめたのです。すぐ気づいたのは、手だけでカヌーを漕ぐのではなく、下半身できちっと押さえないと漕げないことです。脊椎損傷の障害をもって車椅子に乗っている男性に、身体全体で漕げと一所懸命教えるわけです。ところが、車いすに乗っていると腕っ節が強くなって、どうしても手だけで漕ごうとするわけですよ。指の筋肉より腕の筋肉、腕の筋力より身体の筋力の方が強くて持続力もあるから、身体で漕げと言うんですが。
ある時、大阪の温水プールで別の障害者の方にカヌーを教えてくれと頼まれました。中学生の元気な男の子が習いにきました。彼は両腕がないのですが、カヌーを教えてくれというわけです。どうしようかと思ったのですが、パドルを顎に挟んで漕ぐようにと教えたら、わずか2センチしかない腕でちゃんとパドルを返して漕ぐのですよ。すごいと思いました。それを見て、先ほどのおとなの車椅子の障害者の方が、「わかった。辰野さんが言う意味がわかった。この子は腕がないから、身体で漕がないと漕げない」と。
その障害者は、成田の三里塚の空港反対でトンネルを掘っている最中に機動隊のブルドーザーで崩され、脊椎損傷になったのです。彼はカヌーを習っていたとき、僕に「カヌーを漕いでいるとき、障害を忘れていた」と言うのです。というのも、彼が夢を見ると、夢の中で自分が走り回っているのだそうです。そして、カヌーを漕いでいるときは、夢で見たときとおなじように障害者も健常者と一緒に水の上を動いているようで、自分がハンディキャップをもっていることを忘れたと言うのです。僕はそれを聞いて「これだ」と思いました。街に出たら、駅の階段・歩道、どこに行ってもバリアだらけじゃないですか。それに比べ、自然の中って意外とバリアがないことを教えられたのです。
大塚― すばらしい話ですね。
辰野会長― このときからもう20年経ちますが、今申しました脊椎損傷の男性は、その後モンベルに入社し、ある店の店長をしています。障害者カヌー協会を立ち上げ、現在は会長を務めています。20年来、僕が夢見てきた、障害者のオリンピックでのカヌーが実現に近づき、パラリンピックの正式種目になるのです。20年かかりましたけれど、思いをもちつづければ、実現するのだと感じています。
大塚― 水の上にバリアがないという話、国際的にも広がっていくでしょうね。
辰野会長― そう思います。重度の障害をもつ人びとのカヌー人口はまだまだ少ないので、もっと増やしていきたいですね。
アウトドアは、災害への対応性が高く、危機管理の面でもつながっている
大塚― もうひとつお聞きしたいことがあります。エコチャレンジャーのコーナーでは、昨年の東日本大震災にかかわる話をよく伺ってきました。モンベルも、積極的に支援活動をされてこられたと伺っています。
辰野会長― モンベルは大阪に本社がありますので、阪神淡路大震災のときに災害支援活動をはじめて経験しました。そのとき気づいたのは、アウトドアというのは災害への対応性が高く、危機管理の面でもつながっていることです。テントや寝袋はすぐ使えますし、キャンプ道具はライフラインが寸断されたときに役立つわけですよ。そういった経験から、東日本大震災が起きたときも翌日から支援をはじめました。
仙台にあるモンベルの3店舗のうち、仙台港の店舗は津波で相当被害を受け、我々一社ではとても対応しきれないので、「アウトドア義援隊」という名前で、アウトドアにかかわる皆様方の協力を得ながら支援をしました。具体的には、カップラーメン一箱でも、毛布一枚でもいいから店のレジにもってきていただき、山形県天童市のミツミ電機の工場跡地をお借りして集積しました。1ヵ月の間に、約300トンの義援物資を、宮城県の三陸海岸沿いを中心に送り届けることができました。
その後も、義援金のほかにもいろいろな取組をしています。今度の土曜日(2012年7月21日)には、宮城県登米市に取得した520坪の土地に、地元の木材を使い、地元の大工さんの手を借りて、被災した子どもたちをサポートするための集合住宅を竣工するところです。登米市は、栗駒高原のすぐ裏で北上川にも近く、ラムサール条約に登録されている伊豆沼・内沼もありますし、文教地区でもあります。この建物は、「手のひらに太陽の家」というプロジェクトとしてNPOに使っていただき、我々は側面的にバックアップしていく予定です。
大塚― 辰野さんから、アイガー北壁登攀にかかわるさまざまな思いからはじまり、日本人の自然観、自分を大切に自然を楽しむことの大事さ、自己責任をもつことの大事さ、困ったときには助け合うことなど、人間と自然とのかかわりがパックになっている話を伺うことができました。辰野さんの今後のますますのご活躍を期待しています。本日はどうもありがとうございました。
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