一般財団法人環境イノベーション情報機構
エコチャレンジャー 環境問題にチャレンジするトップリーダーの方々との、ホットな話題についてのインタビューコーナーです。

No.017

Issued: 2013.05.10

第17回 公益社団法人全国産業廃棄物連合会・石井邦夫会長に聞く、産業廃棄物処理の現状・課題・展望

石井 邦夫(いしい くにお)さん

実施日時:平成25年4月16日(水)16:00〜16:30
聞き手:一般財団法人環境イノベーション情報機構 理事長 大塚柳太郎
ゲスト:石井 邦夫(いしい くにお)さん

  • 公益社団法人全国産業廃棄物連合会会長。
  • 株式会社市川環境エンジニアリング代表取締役社長、一般社団法人千葉県産業廃棄物協会会長。
  • このほか、環境省中央環境審議会廃棄物・リサイクル部会家電リサイクル制度評価検討小委員会委員など、役職多数。
目次
リーマンショック以降、製造業の海外転出、産業構造の転換、3Rの推進などの影響で、産業廃棄物は減少している
廃掃法改正に業界の意見も反映させたいと、全国産業廃棄物連合会を創設
最終処分は有限な空間を埋めているようなもの
連合会の役割がはっきりしてきたのは、十数年前から
迷惑施設から社会インフラへ
ベトナムでは一般廃棄物と産業廃棄物の区別もありません
最終処分場に行くものをいかに少なくするかがわれわれの役目

リーマンショック以降、製造業の海外転出、産業構造の転換、3Rの推進などの影響で、産業廃棄物は減少している

大塚理事長(以下、大塚)― 本日は、EICネットのエコチャレンジャーにお出ましいただきありがとうございます。石井さんは公益社団法人全国産業廃棄物連合会会長として、また株式会社市川環境エンジニアリング代表取締役社長として、産業廃棄物の適正処理、そして循環型社会の形成に向け活躍されておられます。本日は、廃棄物処理の現状や課題、将来展望などについて伺いたいと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
産業廃棄物の適正処理は、循環型社会の形成、さらには持続可能な社会づくりの根幹に位置するものと理解しています。まず、きわめて基本的なことですが、わが国の産業廃棄物の総量や特徴についてお話しいただきたいと思います。

石井さん― 産業廃棄物は、国の統計で平成12(2000)年ころから4億トンほどの排出が続いていましたが、リーンマンショック、そして一昨年の東日本大震災もあり、平成22(2010)年度は3億8千6百万トンと、減少傾向にあります。われわれも、特にリーマンショック以降は、製造業の海外転出、産業構造の転換、3Rの推進などの影響で、取り扱う産業廃棄物は減少しているという実感をもっています。

大塚― もうひとつ基本的なことですが、石井さんが会長を務めておられます全国産業廃棄物連合会には、全国の事業者のどのくらいが加入しておられるのでしょうか。

石井さん― 全国産業廃棄物連合会は、47都道府県の協会の連合体で、その傘下には約1万6千の企業が入っています。環境省から産業廃棄物処理の許可を得ているのが約10万社ですので、15%程度の組織率かと思います。ただし、10万社のうちの9割は収集運搬の業務だけを行っており、建設業や運送業との兼業といわれています。

大塚― 企業の業態が違うのですね。

石井さん― 産業廃棄物業者の業態は、収集運搬を行うもの、産業廃棄物を燃やしたり、中和したり、破砕するなど中間処理を行うもの、埋立てという最終処分を行うものの3つに大きく分けられます。中間処理と最終処分を行っている会社の4分の3以上が連合会に入会しているとみています。

【図】産業廃棄物排出量の推移(環境省提供)
(※)ダイオキシン対策基本方針(ダイオキシン対策関係閣僚会議決定)に基づき、政府が平成22年度を目標年度として設定した「廃棄物の減量化の目標量」(平成11年9月28日政府決定)における平成8 年度の排出量を示す。平成9年度以降の排出量は、これと同様の算出条件を用いて算出したもの。

【図】全国産業廃棄物の処理のフロー(平成22年度 産業廃棄物の排出処理状況、環境省提供)
[拡大図]

廃掃法改正に業界の意見も反映させたいと、全国産業廃棄物連合会を創設

大塚― 産業廃棄物処理の中核ともいえる、中間処理あるいは最終処分を行っている会社の4分の3以上が連合会傘下ということですね。
ところで、廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃掃法)が成立したのは1970年代だったと思いますが、処理の仕方にどのような変化があったのでしょうか。問題があったとすれば、それらを含めてご紹介ください。

石井さん― 昭和45(1970)年に廃掃法が成立し、昭和46年に施行されました。産業廃棄物、一般廃棄物、浄化槽の3つのカテゴリーに分けられました。廃棄物に限れば、産業廃棄物と一般廃棄物に分けられたことになります。当時は高度経済成長期で、排出された産業廃棄物を、燃えるものは焼却し、燃えないものは山間僻地の窪地に埋めることが主流になっていたのが、だんだんと法律が整備されてきたのです。
廃棄物処理のビジネスとしてみると、玉石混交の状況から抜け出す契機になったのが平成9(1997)年の法改正だったと感じています。

大塚― 全国産業廃棄物連合会が創設されたのは昭和60(1985)年ですね。今のお話しですと、整備が進む前につくられたわけですね。

石井さん― 昭和45年に法律ができ翌年に施行され、その後も改正があったわけですが、連合会の創設は法改正に業界の意見も反映させたいと考えたからです。昭和49(1974)年から50年ころ、各都道府県に自然発生的に任意団体としての協会ができ、その後、全国団体を組織し、昭和60(1985)年に社団法人化し、現在の全国産業廃棄物連合会になったということです。また、平成23年4月には公益社団法人へ移行しています。

大塚― ボトムアップというか、それぞれの地域でまとまりながら、動きが活発化したということですね。

石井さん― そうです。

大塚― 昭和40年代後半から50年代にかけて、石井さんはいろいろな経験をされました。その一端をご紹介いただければと思います。

石井さん― 当時、私どもの会社は東京と千葉で営業していました。東京湾の湾岸地域は、昭和50年代にウォーターフロントと呼ばれるようになり、埋立てにより商業施設、ショッピングセンター、大規模テーマパークなどができました。昭和53年には成田空港が開港し、当時は貨物の取扱量が世界一の空港でした。成田空港で通関された貨物を包装した軟質のプラスチックだけで、1日に何十立方メートルも出たのです。プラスチックを燃やすと黒煙が出たので、その解決のために、一種の摩擦熱を加えて粒状にしてからペレット(数ミリから数センチの固まり)にし、リサイクルを始めました。 また、最初のころは廃棄物をリサイクルするのではなく、湾岸地域の低湿地に埋立てていたのですが、だんだん地元だけでは無理になり、千葉県内、関東一円、最終的には東北まで広げたのがこれまでの歴史です。現在では、リサイクルが進むとともに、スーパーエコタウンという都市再生プロジェクトの一環として、たとえば東京から出るものは東京で処理する考え方に変わったのです。

最終処分は有限な空間を埋めているようなもの

大塚― 先ほどのお話で、成田空港から出た大量のプラスチックをペレットにされたとのことですが、それぞれの企業がなさったのでしょうか。

石井さん― そうですね。われわれの業界への発注者である産業の動脈側の企業がもつ技術を、見よう見まねで転用しました。

大塚― 技術開発にはお金も設備投資も必要だったと思いますが、どんなところがポイントだったのでしょうか。

石井さん― 最終処分というのは空間を埋めているようなものです。空間というのは有限ですから、いつまでも続けることは困難なので、昭和50年代半ばにリサイクルに着手したのです。とはいえ、動脈側の技術の転用といっても大変むずかしく、多額の「授業料」を払いました。

大塚― 私たちがリサイクルという言葉を頻繁に耳にするようになる前から、石井さんたちの業界ではリサイクルに取り組まれていたわけですね。

石井さん― 当時は発泡スチロールが出始め、魚市場などで使われていたのが、だんだんスーパーやコンビニまで広がっており、発泡スチロールを溶かすのにも苦労しました。昭和50年代のはじめに考案したのが、ドラム缶を半切りにし、その中に、通称アスコン──アスファルト・コンクリートの略称で、高温に熱したアスファルトと砂・砂利・砕石などの骨材を混合したもの――を煮詰め、そこに発泡スチロールを入れると、溶けてなくなるのですよ。また、発泡スチロールは発泡スチレンですから、スチレンが180度くらいで溶融しベッコウ状になるのを利用し、ローリングパワーというものを作ったこともあります。片方のロールをプロパンで熱し、もう片方のロールを160度くらいに下げた温度に管理すると、熱い方で溶けて冷たい方にからみつきます。それを刃で切ると、下のバケツにベッコウ状になって落ちるのです。この発泡スチロール処理機を10台くらい作ったのを覚えています。これは町の発明家が作ったもので、昭和50年代初めまで晴海で行われていた公害防止ショーで6台売れました。その後は、メーカーがこの処理機に改善を加えています。

大塚― ローリングパワーは特許をお取りになりましたか。

石井さん― いえ。まあ一種の笑い話のようなものです。

大塚― 処理の技術を含め、興味深いお話を伺いました。そのころは、産業廃棄物の量は多かったのでしょうね。

石井さん― 多かったですね。私どもの会社は建築廃材を扱っていませんでしたが、工業系の廃棄物や自治体の下水道汚泥が多かったと思います。下水道の有機汚泥は、昭和40年代後半から50年代に下水道の普及とともに急増しました。

連合会の役割がはっきりしてきたのは、十数年前から

「産業廃棄物と環境を考える全国大会(2012.11 東京)」で挨拶する石井会長((公社)全国産業廃棄物連合会、(公財)日本産業廃棄物処理振興センター、(公財)産業廃棄物処理事業振興財団共催)

大塚― 工業系の廃棄物はどうだったのですか。

石井さん― 昭和40年代ごろまでは、電炉メーカーが鋼を炉で生成するときに表面に生成されるノロと呼ばれる多成分の鋼材や、鉄鋼の二次製品の赤いベンガラ、酸化鉄の汚泥が多かったですね。それらを出す工場が徐々に地方に移転し、その後にスーパーやショッピングセンターがつくられ、商業系のごみが増えるようになりました。

大塚― 廃棄物を扱う側は、産業構造や立地条件が変わり、廃棄物の種類が変わっても対応してきたということでしょうか。

石井さん― 産業廃棄物の処理を行うには、都道府県ごとの面的な許可と、プラスチックとか汚泥という種類ごとの点的な許可とがあり、地域に特化する業者と特定の廃棄物に専門化する業者の二つがあります。私どもの会社は、千葉と東京を中心に首都圏で仕事をしてきました。

大塚― 全国産業廃棄物連合会についてお伺いします。このような組織を創りマネジメントすることはご苦労もあるでしょうし、またメリットもあると思いますが、そのあたりのお話を伺えますでしょうか。

石井さん― 私は連合会の会長の前から千葉県の会長をしていました。ご質問の件ですが、法律が1年おきくらいに頻繁に変わりますので、その周知のためにも連合会が必要ですし、同じ法律でも都道府県によって多少解釈が違うこともあるので、連合会は役に立っています。 連合会の役割がはっきりしてきたのは、十数年前からです。平成9年あるいは平成10年の法改正のころまでは、われわれは行政に対して後追いでした。そのような状況を変え、業界として、法律の説明を聞くとか、行政と対話ができるようにすることを求めるようになったのです。また、産業廃棄物についての一般の皆様の認知度をあげるための広報活動も行っています。毎年秋には(公財)日本産業廃棄物処理振興センター、(公財)産業廃棄物処理事業振興財団とともに、公開で「産業廃棄物と環境を考える全国大会」も開催しています。

迷惑施設から社会インフラへ

食品リサイクル法に対応する施設として、生ごみを電気とガスに変えるバイオエナジー株式会社(BE)

容器包装リサイクル法に関連の深い業務を行うエム・エム・プラスチック株式会社(MMP)

大塚― 法律が頻繁に変わるというのは、石井さんたちからみても必然的だったのでしょうか。対応が大変と思いますが。

石井さん― バブル期があり、大量の廃棄物が出て不法投棄されたり、野焼きされダイオキシンが出たりと、次から次へと社会を騒がす問題が起きたのが、昭和の終わりから平成10年ころでした。排出者責任の強化が謳われ、何回かに分けて法規制が強化されました。平成9年から12年にかけての法改正で、基本的な方向性がやっと固まったと感じました。

大塚― 法律の整備が進む一方で、廃棄物に対する社会の考え方も変わってきたのですね。

石井さん― 平成10年ころから、3Rが注目されるようになり、焼いたり埋めたりする時代からリサイクルの時代に転換しました。動脈側も経営資源を転用するため、高炉を利用した処理などをはじめたのです。われわれからすると、中間処理施設やリサイクル施設の許認可を受けようとした時、いわゆる迷惑施設といわれる火葬場などと同じように、都市計画法や建築基準法の事前規制をクリアするのに大変苦労したのを覚えています。昭和50年代から60年代は、極端にいえば100に1つしかクリアできませんでした。それが今では社会インフラという認識に変わってきました。隔世の感があります。

大塚― 石井さんが社長を務めておられます、株式会社市川環境エンジニアリングの経験を含め、記憶に残る当時の状況をご紹介いただけたらと思います。

石井さん― 私どもの会社は、大規模テーマパークの廃棄物処理を30年来やっています。その開発がはじまった昭和50年代はバブルの初期でした。そのころ、欧米では廃棄物ビジネスは売上が1兆円規模の企業が担っており、その日本版を創ろうという動きがはじまっていました。2つのグループの動きがありました。Aグループは、三菱商事、新日本製鐵、日本鉱業が中心でした。Bグループは、米国テキサス州のBFI社に声をかけ、鹿島建設、日本興業銀行、日商岩井の3社が中心になって企画していました。米国の廃棄物会社もかかわり動きが加熱していた昭和58年から59年に、その中心にいた6社から呼ばれたこともあります。紆余曲折はありましたが、米国の企業を誘致する話はなくなりました。
平成の時代に入り、容器包装リサイクル法や家電リサイクル法ができました。そのころから、動脈側のメーカーが廃棄物処理に関心をもつようになったのです。法律ができる前に、メーカー側と組んで、いろいろな事業を立ち上げました。家電リサイクル法に関連の深い業務を行う株式会社ハイパーサイクルシステムズ(HCS)、容器包装リサイクル法に関連の深い業務を行うエム・エム・プラスチック株式会社(MMP)、さらにはバイオエナジー株式会社(BE)などがあります。これらの会社とアライアンスを組むことが、私どもの会社の母体になっています。また、株式会社かずさクリーンシステムという新日鐵との合弁会社もあります。

ベトナムでは一般廃棄物と産業廃棄物の区別もありません

株式会社市川環境エンジニアリングがベトナム・ハノイ郊外に設置・稼動したRPF(固形燃料)製造パイロットプラント

大塚― 私自身は、廃棄物とは直接関係ないのですが、アジア・太平洋の途上国に行く機会も多く、どの国でも廃棄物処理は深刻な環境問題になっていると感じています。途上国での活動についてもお伺いしたいと思います。

石井さん― 平成21年に、公益財団法人地球環境センターが公募したCDM(クリーン開発メカニズム)調査事業に応募し、ベトナムのハノイ市郊外の調査企業に選ばれました。翌22年にはそのベトナム全土版の調査事業を実施し、23年と24年に、廃棄物処理・リサイクルシステムをパッケージとして海外展開する日系静脈産業メジャーの育成を目的に導入された制度を活用し、現地にリサイクル工場を作りました。今年3月に、アジア太平洋諸国30カ国が参加した3Rセミナーが開催されたときに、この施設をオープンしました。
プラントとしての実証実験は終了しており、今後はそれを地元企業とどう活用するかが課題になっています。

大塚― ハノイの廃棄物の中身は、日本とは違うのでしょう。

石井さん― 東京オリンピックが開かれた昭和39年ころの日本に近いですね。
ベトナムのカウンターパートが日本の先進技術を学べるよう、ハノイ都市環境公社(URENCO)と業務提携して取り組んでいるところです。

大塚― どのような技術が中心なのでしょうか。

石井さん― 廃プラスチックと古紙類を原料とした高カロリーの固形燃料をRPFといいますが、まずはRPF化装置ですね。ベトナムでは一般廃棄物と産業廃棄物との区分もありませんし、ほとんどが埋立てで、一部でコンポストをつくっているだけです。ベトナム戦争時にダイオキシンによる被害が大きく、清掃工場で燃焼させるのは煙が出るため無理なのです。そのような中で、埋立てからリサイクルへと一足飛びに進もうという勢いです。3R関連の法律でも、2020年には60%のリサイクルを達成すると謳っており、日本のリサイクル技術を導入しようとしています。私どもも、全国産業廃棄物連合会傘下の有志に声をかけ、廃油に強い企業、建設廃棄物に強い企業、医療廃棄物に強い企業などと組み、ベトナムに貢献しようとしているところです。


最終処分場に行くものをいかに少なくするかがわれわれの役目

大塚― 是非、進めていただきたいと思います。
アジアの国々にも活動の対象を広げておられるわけですが、廃棄物処理にさまざまな角度から取り組まれてきた石井さんから、EICネットの読者の皆様をはじめ、市民へのメッセージをお願いいたします。

石井さん― この40年を振り返りますと、当初は基幹産業系の産業廃棄物が中心だったのが、今では大規模テーマパーク、スカイツリー、超高層ビルなどからの廃棄物が私どもの会社が扱う民間の廃棄物の6割以上になっています。生産工場からの廃棄物はリサイクルに回るなど少なくなったわけで、われわれもそれに合うように処理技術やリサイクル技術を追っかけてきました。
循環型社会というのは、廃棄物を収集運搬する業者がいて、選別するソーティング業者がいて、ソーティングしたものをリサイクルして原材料、素材、あるいはエネルギーに転換する業者がいて、それをまた利用して製品を作る業者がいて、製品が一般市民に回って、再びわれわれの元に廃棄物として回ってくる、まさにこのシームレスのサイクルが理想だろうと思います。具体的には、最終処分場に行くものをいかに少なくするかがわれわれの役目と思っています。
循環型社会をしっかり創るために、異なる業種間や企業と市民との協働がますます進むことを願っています。

大塚― 本日は、石井さんの廃棄物処理に関する豊富な経験談と、循環型社会への展望をお話しいただきました。本当にありがとうございました。

公益社団法人全国産業廃棄物連合会会長の石井邦夫さん(右)と、一般財団法人環境情報センター理事長の大塚柳太郎(左)。