1848年、付近に金鉱が発見されるとすぐに集落が形成された。当時はまだ道路がなかったため、人間や物資はユーレカなどの港に船で運搬されたそうだ。ところが、金の埋蔵量は予想よりはるかに少なかったために、その代わりとしてレッドウッドの伐採が開始された。
1878年「木材及び土石法(Timber and Stone Act)」が成立すると、160エーカー(約0.6平方キロメートル)の国有地が1エーカー当たり2.5ドル(約300円)という格安の値段で払い下げられることになった。これに目をつけたスコットランドのエジンバラ市を拠点とする投資家が、水夫や伐採従事者を動員して所有権を確保し、大規模な伐採を開始した。この方法は米国内の資本家の間にも広がっていった。
1914年、サンフランシスコまでの陸路が開通すると、伐採の規模は急激に拡大していった。
こうしたレッドウッドの大規模伐採に危惧を抱いた有志が「レッドウッド保護連盟(Save-the-Redwood League)」を設立、大々的な募金活動が展開され、多くの貴重なレッドウッド林が買収された。これらの森林は、現在カリフォルニア州立公園として保護されている(文末囲みの「レッドウッド国立州立公園の歴史概観」参照)。
ところが、それ以降も伐採は続き、さらに大規模に、さらに奥地へと進んでいった。上流部での大規模な伐採により、下流域の集落はたびたび洪水に見舞われるようになった。1960年代以降の環境運動の高まりに応じ、1968年にレッドウッド国立公園が設立されたが、伐採業者の強力な圧力などにより公園面積は大幅に縮小され、流域を構成する重要な原生林の多くも区域から除外されてしまった。結局伐採はその後10年間も続き、1978年にレッドウッド国立公園の区域が拡大されたことでようやくその幕を閉じた。その頃までには、港から近く運搬も容易な手ごろな原生林はほぼ切りつくされてしまっており、伐採業自体もすでに廃れていたようだ。伐採業者は、国立公園予定地の原生林を切れるだけ切っておいて、当時最高の市場価格で山林を政府に売払って退却した。
これらの二次林地帯に入ると、切り損ねて谷底に転がった丸太などが今もそのままに放置されている。ワイヤーやトラックも捨てられ、本当にひどいありさまだ。
生活の基盤を根こそぎ剥奪されたネイティブアメリカンや、頻発する洪水被害の続いた入植者の集落など含め、この地域には、レッドウッド伐採による負の遺産だけが残されているように見える。
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ピーナッツの形に似せたレッドウッドの丸太がレッドウッド国立州立公園に隣接するガソリンスタンドの敷地に横たわっている。レッドウッド国立公園の設立の反対派が抗議のために製作し、首都ワシントンDCまでトレーラーで運搬したものだ。現在も、地元住民の一部には国立公園設立以来のわだかまりが残っている。なお、「ピーナッツ」の形は、レッドウッド国立公園の拡張を事実上決定した当時のカーター大統領が、ピーナッツ栽培農家だったことにちなんでいるそうだ。 |