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シリーズ・もっと身近に! 生物多様性 ──2010年に向けて(第1回)
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No. アメリカ横断ボランティア紀行(第11話) レッドウッド国立州立公園到着
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Issued: 2007.06.28
レッドウッド国立州立公園到着[4]
 目次
パン焼き機購入
パン焼き機購入
 毎日の野外作業にはサンドイッチが手軽なのだが、食パンがすぐになくなってしまう。
 ボランティア宿舎から近くのスーパーまでは車で片道40分以上。道は上り下りも多く、それほど頻繁に買い物には行けない。公園事務所の向かいにあるカントリーストアにも食パンは売られているが、古い上に値段も高めだ。そこで、パン焼き機を購入することにした。
 「近くにうまい食パンを売っている店もないし、小麦粉なら安くてかさばらないよ」
 屁理屈をこねて妻の説得に成功。日本の有名メーカー製の一斤タイプが何と10ドル。スリフトショップ(妻の一言参照)で購入した。
 初めは二人とも半信半疑だったが、毎朝タイマーでパンが焼きあがるようになって、そのとりこになった。焼きたてのパンは市販の食パンとは比べ物にならないほど美味しい。アメリカではパン用の粉やバターも格安だ。
 それにしても不思議なのは、市販のパンの値段と味だ。日本の食パンの2〜3倍の量で1ドルしないものもある。どうすればこんなに安くなるのかわからない。一方、当然のことながら味もよくない。焼いてもジャムをつけても美味しくなかった。

パン焼き機で焼いたパン
パン焼き機で焼いたパン

 パン焼き機購入を期に、いろいろなパンも試してみた。おからパンはしっとりとしていて、バターの節約にもなる。豆腐を作った後は決まっておからパンにした。パン生地だけを作って自分で成型してオーブンで焼くことも試した。生のガーリックとバターを乗せて焼いたガーリックパンはおいしかった。また、自家製アンパンはアメリカ人にも好評だった。
 このパン焼き機はその後ワシントンDCまで持って行き、散々迷った末、日本に持ち帰ることはあきらめた。
 帰国後、電気店の広告を見るたびその値段の高さにため息が出る。アメリカの広い宿舎と違って台所のスペースにも余裕がなく、私たちはまだ購入に踏み切れずにいる。
<妻の一言:スリフトショップ>
 レッドウッドに移ってから、「スリフトショップ(thrift shop;倹約商店?)」という店に行くことが多くなりました。中古品を扱う店のことですが、日本のリサイクルショップというよりは、常設の「バザー」という感じです。収益の一部が教会などに寄付されるお店もありました。商品はまさに玉石混交で、食器や洋服、家具、電化製品から中には中古車まで売っている店もあります。価格は驚くほど安く、1ドルから10ドルくらいが最多価格帯です。また、日本のリサイクルショップと違い、商品の引き取りは無償なので、余程ひどいものでなければ受取を拒否されたりしないようです。そのため、使い古されたものであってもまだ使えるものであれば立派に流通しています。例えば、購入した二段重ねの蒸し器は相当の年代モノでしたが、使いやすく丈夫でした。
 このような店はマンモスケイブにもありましたが、どちらかというと低所得者層対象という感じでした。カリフォルニア州北部に来てみると、店も多く、一般的によく利用されているようです。また、古着が充実しているところ、電化製品が充実しているところ、食器が揃っているところなど、それぞれ特徴もあります。電化製品などには不思議なガラクタも多く、主人はすっかり病み付きになってしまったようです。中には、それまで苦労していた納豆の温度調節問題を解決してくれた、蜀台型の電気ランプなどの掘り出しものもありましたので、一概にガラクタばかりとも言い切れません。使い捨て文化のイメージが強いアメリカで、多くの人々がこのような店を利用しているのには正直驚きました。
 レッドウッドのボランティアハウスは、あまり食器や電化製品が充実していませんでした。そこで、足りないものはスリフトショップで購入することにしました。コップが一つ50セント、皿一枚が1ドルといった値段です。掘り出し物も多く、かなりいいものを揃えることができました。中には、日本にはないデザインが気に入ってしまい、わざわざ日本に持ち帰ったものもあります。最も値が張ったものは掃除機の60ドル(約7,200円)。日本の掃除機も持参していましたが、アメリカのカーペットにはとても太刀打ちできません。
 迷いに迷いましたが、テレビも購入しました。古い日本製のカラーテレビが38ドル(約4,600円)です。テレビをつけてみてわかったのですが、ボランティア宿舎の周辺はレッドウッドの高木で電波状態が悪く、テレビが映らなかったのです。そのためこのテレビはビデオ専用となりました。  こうした購入品は、一部を国立公園事務所に寄付し、残りは職員食堂の一角でバザーを開いて引き取ってもらいました。大した額ではありませんでしたが、地元のコミュニティーに寄付することにしました。
 この地域の特徴として、健康志向の強いと大都市などでよく見かけるオーガニックストアがあり、品物の値段は高めですが、お店の駐車場はいつもいっぱいで大手スーパーマーケットよりお客が多い気がしました。また、となりのモンデシーノ・カウンティー(カウンティーは、日本の「郡」に似た行政単位)は、アメリカ国内で初めて遺伝子組換え作物の栽培を禁止したことでその名が知られています。この地域には食の安全性や環境問題に関心のある人が多い気がしました。
レッドウッド国立州立公園の歴史概観
(Official National and State Parks Handbookより抜粋翻訳)

 第一次世界大戦後、カリフォルニア州ハンボルト・カウンティーとデルノルテ・カウンティーにまたがる、最後の大面積レッドウッド原生林を伐採から守るため、古生物学者たちが初めての全国的な保護キャンペーンを行った。彼らはレッドウッドに関する学術論文の発表、レッドウッド林の踏査、及びレッドウッド原生林保護の中心的役割を担うことになるレッドウッド保護連盟の設立を助けた。保護連盟は、寄付金や補助金により、1920年から1960年までに100,000エーカー(約4万ヘクタール)以上のレッドウッド原生林を買い上げた。連盟が買い上げた土地のほとんどは、現在ハンボルト、プレーリークリーク、デルノルテコースト、及びジェデダイアスミスの4つの州立公園として保護されている。これらのレッドウッド原生林は、当時残されていた平地に生育する巨大なレッドウッド原生林の多くを含んでいた。このため、当時の人々は森林の保護が十分行われたと考え、保護の気運は低下した。これらの森林のほとんどは低地や氾濫原に位置する森林であったが、それらの上流にある相対的に細いが経済的価値の高いレッドウッドの原生林は保護の対象にならなかった。当時は、森林の流域単位での保護という考え方がなかった。
 その一方で、第二次世界大戦後の住宅建設ブームにより、1950年代にはそれまでの3倍もの勢いでレッドウッドの伐採が進んだ。斜面林の多くは木材会社の所有であり、政治的・経済的にもその保護は難しかった。保護連盟も当時はそのような比較的細い樹木の保護には興味がなかったために伐採会社との関係も良好で、それゆえ巨額の寄付金集めにも成功していたという背景もある。このため、依然流域単位での保護を進めようという意見は少数派にとどまり、斜面林の伐採が続けられた。このような保護政策の遅れが後の大洪水の頻発を招き、低地レッドウッド林の存在が脅かされる一因ともなった。
 1960年代になると、環境問題が顕在化し、経済的価値の多少にかかわらず貴重な生態系を守るべきという動きが生まれた。しかしながら、レッドウッドの保護と経済的発展は相容れず、保護は遅々として進まなかった。斜面林の大規模伐採が進む中、1955年には大規模な洪水が発生し、ブルクリークという地域で、上流からの土石流により原生林の樹木500本が押し流されるという大惨事が発生した。1964年には再び大洪水が発生したことなどをきっかけに、シエラクラブがレッドウッド林保護のための活動を開始し、当時のジョン F. ケネディー大統領に働きかけた。シエラクラブは、1960年当時ほとんど手つかずの原生林が残るレッドウッドクリークを国立公園にしようとした(これに対し、レッドウッド保護連盟はジェデダイアスミス及びデルノルテコースト州立公園の上流部に当るミルクリークをその候補の一つとしていた)。ナショナルジオグラフィック協会の調査により、世界で最も高い木がレッドウッドクリーク沿いに数本見つかったことにより、レッドウッドクリーク一帯の保護活動に拍車がかかった。ちなみに、当時トールトゥリーグローブ(高木の森)で見つかった最も高い木は367.8フィート(約112メートル)もの高さがあった(当時世界で最も高い木)。
 1964年、シエラクラブは90,000エーカー(約3万6千ヘクタール)にも及ぶ国立公園を提案した。その構想は、レッドウッドクリーク集水域の半分を公園に含み、売り渋る伐採会社から用地を購入するために1億6,000万ドル(約192億円)もの費用を支払うというものであった。しかしながら、当時は用地がすでに連邦政府所有地であるか、寄付された土地でなければ国立公園を設立することは困難であり、それまで連邦議会が承認したことのある公園買収費用は最高でも1件あたり350万ドル(約4億2千万円)に過ぎなかった。
 3年間にもわたる政治的争いの末、1968年10月に連邦議会は58,000エーカー(約2万3千ヘクタール)のレッドウッド国立公園の設立を承認する法律を可決し、当時のリンドン・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)大統領がその法律に署名した。この公園は20,000エーカー(約8千ヘクタール)のレッドウッドクリーク沿いの森林を9,200万ドル(約110億円)という巨額の費用により購入したものであったが、伐採会社などの抵抗により公園区域が大幅に縮小された結果、公園化された原生林は河川沿いの細長い区域だけにとどまり、その不自然にひょろ長い形状から“イモムシ(The Worm)”と揶揄された。1969年と1976年の連邦議会に拡張案が提案されたものの否決され、その間に、保護の対象とならなかった大部分の原生林の伐採が続いた。1976年の議会公聴会では、既にレッドウッドクリーク集水域の原生林の90%以上が伐採されてしまったことが明らかにされた。当時のカーター政権は公園拡張に前向きであったが、実際に公園区域の拡張を達成するまでに、さらに2年の年月を必要とした。
 1978年の連邦議会で、遂に48,000エーカー(約2万ヘクタール)の拡張が認められ、これによりレッドウッドクリークの下流1/3に当る地域が国立公園として守られることになった。さらに上流の民有地など30,000エーカー(約1万2千ヘクタール)が、公園区域外の「公園保護地域」として指定された。
 こうしてようやく国立公園に編入された伐採跡地は、ずさんな林道建設や無謀な伐採行為の爪跡が深く刻みこまれていた。レッドウッド国立公園には、自然修復の専門家らが集められ、レッドウッド林本来の生態系を取り戻すための取組みが続けられている。
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記事・写真:鈴木渉(→プロフィール

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