No.002
Issued: 2012.02.06
振り返ればそこが「世界の楽園」だった
- 関 礼子さん
- 社会学者。立教大学教授。
北海道・阿寒国立公園内の屈斜路湖畔出身。
公害・自然保護問題研究ほか、地域の環境史をフィールドから紡いでいます。
「世界には溜息をつくほど美しい自然がある!」と、考えると心が躍ります。でも、「幸せの青い鳥」かもしれません。
愛媛県今治市。1980年代から90年代にかけて、白砂の浜辺を守ろうとした運動がありました。裁判も提訴され、全国紙レベルでも注目された織田が浜埋立反対運動です。「自然保護の天王山」とも言われていました。
ところが、はじめて訪れた織田が浜には、思い描いていた「美しい自然」と「自然保護運動」はありませんでした。曇天だったせいか、埋め立てが進んでいたからか。奇妙な戸惑いを打ち消してくれるはずの地元の人も、織田が浜を「美しい貴重な自然海浜」と表現しないし、この運動を「自然を守るための運動」とはいいませんでした。
希少な海浜植物もないし、運動がはじまるまでは名前すらなかった、ただのハマ。「何もないのが値打ち」だというのです。そして、ハマを通して暮らしを語り、地域を語ります。お正月の若潮汲みにはじまり、雛祭りにはハマに出て「おなぐさみ」、夏の日の海水浴に、お盆の精霊流し。波の音を聞き、潮のにおいを感じながら過ぎていくハマの暮らし。だから守りたいのだと。
「何もないのが値打ち」のハマは、かけがえのない日常であると同時に、出会った人々の人生や地域のアイデンティティそのものでした。やっと、そこに気づいたとき、目の前にある織田が浜の風景がすっと開けてきました。奥ゆきのある、人肌のにおいがする、生き生きとした織田が浜を、心から美しく、いとおしく感じました。
そんな織田が浜に、数年前、別なかたちで再会しました。エメェ・アンベールの『絵で見る幕末日本』(講談社学術文庫)の「瀬戸内海」のなかに、今治から郊外に続く広い砂浜について記されていたのです。この砂浜の一部こそ、1995年に裁判が終わり、埋立も完了した織田が浜でした。
嬉しくなって、幕末から明治時代に日本を旅した異国の人々が書いた紀行文を手当たりしだいに読んでみると、瀬戸内海賛歌が出るわ、出るわ。起伏に富んだ海岸線と村落、斜面の段々畑が現れては姿を隠す風景。瀬戸内海は、スイス、イングランド、イタリア、アラスカ、どんな国の水域よりも美しい。そう、誰もが称賛しています。しかも、その美しさの源に、人々の日常の営みがあることを伝えています。
自然と密接にかかわる暮らしがあり、人と自然とが渾然一体になってつくってきた風景がありました。日本が「世界の楽園」と呼ばれていた頃、人と自然とのかかわりの風景に「楽園」が見いだされていました。当時はあたりまえの暮らしの場が、実は異国の人々にとって「楽園」であったという発見!
高度経済成長を経て、暮らしのあり方は激変しました。公害、環境汚染、開発による自然破壊、圃場整備で失われる棚田や段々畑、耕作放棄地や荒れた山林など、日本はさまざまな問題を経験してきましたが、それは「楽園」の破壊だったということになりましょうか。
それでもなお、人と自然のかかわりの風景が、なくなってしまったわけではありません。自然のなかに暮らしの論理が息づく場があり、それを肌で感じるスピードがあります。
ある夏の日の織田が浜。あちらで挨拶を交わした散歩中の男性が「ここが反対運動で有名になった織田が浜だよ」と誇らしげに語ったかと思えば、そちらではごみを拾い歩いていた女性が「みんなにきれいなハマを見てもらいたいからね」。こっちでは、水質調査の作業中かとおぼしき人が、次の瞬間、無邪気な子供のように泳ぎだしていました。
そうした風景を垣間見るには散歩がベスト、散歩するように移動するのがベター。もっとも、新幹線や飛行機では、「幸せの青い鳥」をつかまえようにも窓は開きませんし、あっという間に見失ってしまいますものね。
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記事・写真:関 礼子
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