No.157
Issued: 2009.01.22
シリーズ・もっと身近に! 生物多様性(第17回)「ABSのABC 〜生物多様性条約での利益配分の事始」
生物多様性条約(以下、CBD)の目的は3つあります。
(1)地球上の多様な生物をその生息環境とともに保全すること
(2)生物資源を持続可能であるように利用すること
(3)遺伝資源の利用から生ずる利益を公平【1】かつ衡平に配分すること
(条約 第1条)
それぞれ保全、持続可能な利用、利益配分に関わる目的であり、3番目の「公平かつ衡平に」とは、“えこひいきせず、かつバランスよく配分する”といったほどの意味です。
この第3の目的は、「(遺伝資源への)アクセスと利益配分」を意味する英語(Access and Benefit-Sharing)の頭文字を取って、『ABS(エービーエス)』と呼ばれます。
「利益」というと、企業が上げる収入から経費を差し引いた利潤としての“もうけ”が思い浮かぶかもしれませんが、ここでいう「利益」は、技術の移転や知識の共有なども含んだ広い概念(便益=Benefit)として用いられています。
私たちの身の周りには、外国から入ってきたものを含む遺伝資源を利用したさまざまなサービスや商品が溢れているにも関わらず、ABSは、まだまだ一般の方々にはなかなか馴染みがありません。
しかし、実際の法制度、研究、事業への影響の大きさから、条約の交渉ではもっとも白熱して、議論が交わされてきた分野です。今後も、国際機関や各国が2010年に向けて、もっとも注力している分野です。今回は、そのABSの初心者のための入門編としてお送りします。
ABSの特色
生物多様性条約のABSには以下の特色があります:
- 各国家が遺伝資源への主権的権利を持ち、アクセスへの措置を決定する権利を持っていることを認識
- ある国から別の国に、国境を越えて遺伝資源を移動する際に適用
- 資源提供国と利用者の二者間の取り決めについての議論(複数国が基金・機構にお金を出す方式ではない)
※国連食糧農業機関(FAO)の「食料・農業のための植物遺伝資源に関する国際条約(ITPGR)」と区別。 - 自然資源だけではなく、遺伝資源に関連する伝統的知識として先住民【2】や地域社会の文化を含む
(伝統的知識については、条文の規定から、「エイト・ジェー」(条約の8条j項)と呼ばれます)
ABS問題の起源: 南北の主張から
ABSは、そもそも条約策定当時の途上国と先進国の対立(南北問題)に端を発します。先進国や多国籍企業が、原産国(主として途上国)の生物資源や遺伝資源を収奪するバイオパイラシーへの批判などに応える形で盛り込まれたものとされます。
遺伝資源の収奪の歴史的な起源は古く、欧州による植民地時代まで遡ります。欧州の植物園や博物館を見れば、帝国支配の間に、世界中の植民地から動植物、種子などの遺伝資源を持ち帰っていたことがわかります。
発展途上国が危惧するのは、こうした“収奪”が、生物多様性の保全という名目のもとに形を変えて、多国籍企業や先進国などが途上国の生物資源・遺伝資源を搾取・支配することです。地域社会で脈々と培われてきた伝統的な知識から得られた薬草や有用な資源など、自分たちがそれまで培い、自由に使ってきた資源が、奪われたり、特許などで利用が制限されたりすることを懸念しているのです。
一方、先進国では、資源開発のための基礎研究や投資という負担とリスクを抱えて商品やサービスを創っています。遺伝子を含む生物資源から得られる10万の材料から、化学品や薬品など特許を取得できるものが10程度、商品として成り立つものが1つあるかないかという世界です。僻地まで行くコストや製品化できるかどうかわからない中での投資というリスク、何より製品やサービスを開発しようという努力やアイデアが価値の大部分を生み出しています。許可申請のための多くの書類を提出したり、現地への対価を払うなど負担が増大しすぎると、資源開発そのものが成り立たなくなる懸念もあります。
アメリカ合衆国は、「技術移転が無制限になる可能性があり、その歯止めとしての知的所有権の保護も十分ではない」として、生物多様性条約を批准していません。
特に知的所有権については、遺伝資源などに限定するにしても、他に専門の条約や機関が存在するため、生物多様性条約という枠組の中で話し合いを行うことがそもそもふさわしいのかという疑問を呈する意見もあります。
協調が必要なわけ
私たちの身のまわりには、遺伝資源を利用したサービスや商品が溢れています。衣食住の素材はもちろん、薬品製造や汚染物質の分解・浄化など目に見えないところでも、遺伝資源は私たちの生活を支えてくれています。
[身の周りの遺伝資源]
産業(Sector)※1 | 遺伝資源(Genetic Resources) | 売上高(US $ millions) |
---|---|---|
医薬品 (Pharmaceuticals) |
植物、動物、微生物 | 178,000 - 356,000【4】 (市場全体 712,000) 【5】 |
バイオテクノロジー (Biotechnology) |
植物、動物、微生物 | 73,478 【6】 |
種子 (Seed) |
植物 | 22,900 【7】 |
農薬 (Crop Protection) |
植物、動物、微生物 | 30,425 【8】 |
園芸品 (Horticulture) |
植物 | 2,054 【9】 |
化粧品・パーソナルケア (Cosmetics and Personal Care) |
植物、動物、微生物 | 85,000 【6】 |
合計(推計) | 391,857 - 567,857 |
※1「産業(セクター)」注釈
- 医薬品:製薬産業全般
- バイオテクノロジー:酵素、生物触媒等の化合物やDNAの解析など基礎研究分野
- 種子:農産物の種子
- 農薬:除草剤、殺虫剤、殺菌・防かび剤など
- 園芸品:観賞植物及び生木、苗木、球根、カットフラワー、葉等含む
- 化粧品・パーソナルケア:化粧品、サプリメント、機能食品、フレグランス・フレーバーなど
自然界には、人間の想像を絶する形状や機能をもつ生物(特に微生物)があり、これまで幾多の製品開発の着想や実用化につながってきました。特に、極寒地帯や猛暑地帯、乾燥地帯や高圧環境など極端な環境に棲息する生物は、その適応の進化の過程で特化した機能をもち、それらが人間の役に立つことも珍しいことではありません。
これらは、原生自然が多く残されている発展途上国や、主権の及ばない公海など、国際的な協調を必要とする場所に位置することが多く、人間にとって有益な未知なる資源が埋もれているのではないかと大きな期待が寄せられています。生物多様性条約では、先進国・途上国が互いに歩み寄れるような枠組みを作るべく、議論を重ねてきました。
協調の事例
有名な例では、コスタリカの生物多様性研究所(INBio)と世界的薬品会社メルク社による契約がよく知られています。INBioが遺伝資源情報を提供する見返りとして、メルク社が管理費用を提供するものです。ただし、このプロジェクトは、純粋な遺伝資源の国境を越えた移動ではなく、参考となる情報のやり取りである点が、厳密なABSの議論ではないという指摘もあります。
他にも日本企業が技術的な協力を行い、マレーシアなどの現地で研究開発を行なっている成功事例などがみられます。
ボン・ガイドライン
2002年4月にオランダのハーグで開催された第6回締約国会議(COP6)において、ABSの実施に際する自主的なルールを定めた「ボン・ガイドライン」が採択されました。ただ、ボランタリーなもので、法的な拘束力はありません。
ボン・ガイドランとは、以下のようなものです:
- 2002年のCOP6においてガイドラインとして採択
- 提供国から国外利用者への遺伝資源の移動に伴う二者間のアクセスの取り決め
- 二者間の相互に合意された条件(MAT)と事前の情報に基づく同意(PIC)が必要
- 現場レベルの情報共有や技術移転の重要性にも言及
遺伝資源の移動がある場合は、事前にその資源が存在している国(原産国)に前もって知らせ、同意をしていこうというのが大きな特色となっています。専門用語では、事前の情報に基づく同意(Prior Informed Consent)という意味の英語の頭文字をとって、PICと呼ばれます。
同時に、多くの場合に発展途上国である原産国に対しては、知識や技術を共有していくことで、利用者による地域社会への貢献につなげていこうという意図を感じさせる内容になっています。
一方で、法的拘束力のない自主的なガイドラインにとどまる点に不満を表明する国も存在します。生物多様性条約では、法的な拘束力の是非を含めて、新しい国際的制度についての議論が現在まで続いています。
2010年の国際的制度
2002年のヨハネスブルグサミット(WSSD)で定められた実施計画の40項(o)(j)などでは、「ボン・ガイドライン」を受けて、ABSに関する条約の目的を推進し、しっかりと守られるような国際的制度(International Regime)について、さらなる交渉を進めることを呼びかけています。
ただ、WSSDの開催は、ガイドラインの採択からわずか数ヶ月程度しか経っていなかったことから、ガイドラインを実践した上で、知見や情報を共有し、得られた教訓から課題を克服するための措置を検討するには不十分であるという主張もなされました。国際的制度に反対ということではなく、まずはガイドラインで得られた知見や教訓を十分にこなした上で、次のステップを議論していこうとする立場です。
実務の面では、多くの発展途上国で法制度や組織の確立が遅れている現実もあります。事前に交渉して合意を得にも、担当となる窓口や組織が存在しなかったり、不明瞭であることが多いのです。専門用語で、「権限のある当局(Competent National Authority)」や「担当窓口(National Focal Point)」と呼ばれる組織や人材の確立と育成が、急務となっています。
また、どのような国際的制度としていくのか、その中身の議論をする前に、法的な拘束力があるのかないのかという論争が部分的に始まってしまったことで、論点が噛み合わない事態が起きたこともありました。作業部会は、コンプライアンス、伝統的知識(8j)、用語や概念【10】などに関わる専門部会に分かれて議論を重ねてきています。
締約国会議の決議では、こうした新しい国際的制度に関して多方面から検討を重ねてきた作業部会に対して2010年にその任務を終え、何らかの議論の目処を出すことを求めています(ブラジルでの第8回締約国会議決議 VIII/4 6項【11】)。そうした意味で、日本で開催が決定している第10回締約国会議には国際社会の注目が集まります。
ABSにかかる議論は専門性の高いものですが、私たちの生活を成り立たせ、関わりの深い研究や事業、制度についての話でもあります。ぜひ、COP10を機会に関心を寄せてください。
FAO ITPGR シャキール条約事務局長のメッセージ
日本の皆様
FAO食料農業植物遺伝資源国際条約(ITPGR: International Treaty on Plant Genetic Resources for Food and Agriculture)は、食糧保障のためのグローバルな法的制度であることを、まず強調させていただきたいと思います。条約の目的は、食料農業植物遺伝資源の保全、持続可能な利用、その利用から生ずる利益の公平かつ衡平な配分となっており、生物多様性条約とも整合性があります。二条約は、さまざまな分野で協力関係にあり、特に整合的で互いに支えあえるような、利益配分の国際制度を創出するために、どのような選択肢があるのかといった領域での協力は重要となります。
2007年には、食料農業の研究、育種、訓練用に、共有された64の作物の遺伝材料へのアクセスを促進すべく、ITGPGRの革新的な多国間の利益配分が初期の実施段階に入りました。2008年以来、ITPGRは、固有の国際レジームとして、多国間のスキームを通じて、発展途上国の農業従事者と地元のコミュニティに利益を分配してきました。全締約国の拠出戦略(Funding Strategy)で合意された優先度に従って、利益は配分されています。
締約国の努力の結集のお陰で、多国間のシステムは、日々、数百の食料農業の植物遺伝資源が移転され、稼働するメカニズムとなっています。移転は、標準材料移転契約(Standard Material Transfer Agreement)を通じて行われることで、取引費用が抑えられます。
現在と将来の食糧保障を支えている遺伝的な遺産を守るという作業に、皆様と共に協力しながら歩んでいくことを楽しみにしております。
シャキール・バーティ
事務局長
FAO食料農業植物遺伝資源国際条約
Dear Citizens of Japan,
Let me take this opportunity to highlight that the International Treaty on Plant Genetic Resources for Food and Agriculture is a global legally instrument for global food security. Its objectives are the conservation and sustainable use of plant genetic resources for food and agriculture and the equitable sharing of the benefits arising out of their use, in harmony with the Convention on Biological Diversity. The Treaty and the Convention collaborate in different fields, and specifically, in the development of options for a harmonious and mutually supportive international regime on Access and Benefit-sharing.
During 2007 we haven seen the initial implementation phase of the innovative Multilateral System of Access and Benefit-sharing established by the Treaty to facilitate access to the genetic materials of 64 crops included in a common pool for research, breeding and training for food and agriculture. Since 2008, the Treaty is the unique international regime distributing benefits to farmers and local communities in developing countries through a multilateral scheme. The benefits are distributed according to the principles and priorities agreed in the Funding Strategy by all countries that are Contracting Parties.
Thanks to the joint efforts of the Contracting Parties, the Multilateral System is now a day-to-day operational mechanism with hundreds of transfers of plant genetic resources for food and agriculture accessed through a Standard Material Transfer Agreement which reduces transaction costs.
I look forward to working together to safeguard the genetic heritage which sustains our present and future food security.
Shakeel Bhatti
Executive Secretary
International Treaty on Plant Genetic Resources for Food and Agriculture
謝辞
本原稿の本文作成に当たっては、財団法人バイオインダストリー協会と、表の作成には本田悠介氏(神戸大学国際協力研究科在籍)に協力いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。
東京での専門家会合 JBAセミナーの開催
2009年1月27日から30日は、東京にABSの三専門部会の一つである、「ABSの国際制度に関わるコンプライアンス」の専門家会合(非公開)が開催されます。
専門家会合の文書
2009年2月3日にABSの会合に深く関わっていらした関係者、先生が、研究者と企業等の関係者のために報告会を開催します。
「生物多様性条約 COP10 名古屋に向けた最新状況と海外の遺伝資源へアクセスする際の国際ルール」
[経済産業省委託事業 - JBAオープン・セミナー]
略語リスト
- ABS:アクセスと利益配分(Access and Benefit-Sharing)
- IR:(新しい)国際的制度(International Regime)
- 8j:先住民の文化・伝統的知識に関わる条約第8条j項(Article 8j)
- PIC:事前の情報に基づく同意(Prior Informed Consent)
- MATs:相互に合意する条件(Mutually Agreed Terms)
- MTAs:素材移転契約(Material Transfer Agreements)
- 【1】公平
- 「公正」と翻訳される場合もある
- 【2】先住民
- 「原住民」と翻訳される場合もある
- 【3】
- Kerry ten Kate, 2002, “Science and the Convention on Biological Diversity, ten Kate,” Science, Vol.295, pp.2371-2372.
- 【4】
- 遺伝資源由来の医薬品は低く見積もって全体の25%、高く見積もって全体の50%。Kerry ten Kate and Sarah A Laird, 1999, The Commercial Use of Biodiversity, Earthscan, p.2.
- 【5】
- IMS Health, 2007, Global Pharmaceutical Sales, 2000-2007.
- 【6】
- Sarah Laird and Rachel Wynberg, 2008, Access and Benefit-Sharing in Practice: Trends in Partnerships Across Sectors, CBD Technical Series No.38, p.14.
- 【7】
- ETC Group, 2007, The World's Top 10 Seed Companies - 2006.
- 【8】
- International, 2007, Croplife International Annual Report 2006-2007.
- 【9】
- UN Comtrade, 2007.
- 【10】
- 事前の情報に基づく同意であるPICや、相互に合意する条件(MATs:Mutually Agreed Terms)のあり方について、関連するアイディアを出したり、自国の法制度やこれまでの建研や知見を交換しています。他にも、知的所有権や移転の条件に関わる素材移転契約(MTAs: Material Transfer Agreements)などが議論されています。
- 【11】COP8決議(VIII/4 6項)の抜粋
- Requests the Ad Hoc Open-ended Working Group on Access and Benefit-sharing to continue the elaboration and negotiation of the international regime in accordance with its terms of reference in decision VII/19D and instructs the Ad Hoc Open-ended Working Group to complete its work at the earliest possible time before the tenth meeting of the Conference of the Parties;
関連情報
- ABSの国際的制度の概史 CBD条約事務局(英語・仏語のみ)
- 財団法人 バイオインダストリー協会 CBD関連国際情報(生物多様性条約の条文 及び ボン・ガイドラインの和訳あり)
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記事・写真:香坂 玲
〜著者プロフィール〜
香坂 玲
東京大学農学部卒業。在ハンガリーの中東欧地域環境センター勤務後、英国UEAで修士号、ドイツ・フライブルク大学の環境森林学部で博士号取得。
環境と開発のバランス、景観の住民参加型の意思決定をテーマとして研究。
帰国後、国際日本文化研究センター、東京大学、中央大学研究開発機構の共同研究員、ポスト・ドクターと、2006〜08年の国連環境計画生物多様性条約事務局の勤務を経て、現在、名古屋市立大学大学院経済学研究科の准教授。
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