国立公園における「保護と利用の両立」という課題は、その制度発祥の地アメリカでも常に議論の的であった。その歴史を簡単に振り返ってみたい。
1916年に設立された国立公園局の初代局長であるステファン・マザーと、その右腕であり後継者でもあるホラス・オルブライトは、国立公園システムの基礎を固め、組織の運営方針を明確にした。その方針は、多くの人々の予想に反し、利用(レクリエーション)優先ではなく、「人々のインスピレーションと教育(inspiration and education of the people)のために国立公園を管理していく」というものであった。これは、1918年に当時の内務長官名で発表された「政策方針書(policy statement)」の中で具体的に示され、「保護の優先」も打ち出された。
ところが、その後も国立公園内では人間中心の自然資源管理方針がとられた。例えば、捕食動物の駆除(predator destruction)、通景線伐採(vista clearing of forests)、外来種の導入、及び殺虫剤・除草剤の公園内での使用などである。
オルブライト氏は、局長就任後にも捕食動物駆除を否定し、公園をすべての生物種の生息地として保全することを主張した。また、同局職員で野生生物学者のジョージ・ライトは、1932年に「国立公園の動物相(Fauna of National Parks)」を自費出版した。同氏はこの書の中で、科学的な野生生物管理の原則と、政策決定をより適切なものにするためのさらなる調査研究のための制度導入を提唱した。この考え方に基づき、国立公園局内に野生生物課が創設され、ライト氏がその代表者に就任した。しかし、1936年の同氏急逝によって、取り組みは頓挫する。その後、ライト氏の思想の多くは無視され、利用に偏った管理が続けられることになった。
一方、1933年にCCC(Civilian Conservation Corps:市民保全部隊)が、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策の一環として組織され、失業者が国立公園などの公共施設建設に従事することになった。これにより、国立公園の基本的なインフラが急速に整えられた。同年、オルブライト局長は、「国立公園における調査研究(Research in the National Parks)」など一連の通達を行い、一貫した管理のために体系的な調査研究体制の必要性を明確に示した。しかしながら、このCCCによる公園の過剰整備や国立公園システムの急成長
【19】などが逆に災いし、科学的情報の収集及び公園管理方針へのフィードバックの体制が確立されることはなかった。
その後、第二次世界大戦による予算不足の時期などを経たものの、利用を優先した管理方針を採り続けたことが、国立公園局に対する国民の絶大な支持につながった。また、そのような大衆の人気に裏付けられた、大きな政治力を獲得することになった。その結果、同局は大規模な予算救済策である「ミッション66(Mission 66)」の獲得に成功した。1956年に開始されたこの事業は、総予算額10億ドルにものぼる一大プロジェクトで、国立公園における大規模な建設事業や開発事業が進められた。
このミッション66は、大々的な触れ込みと楽観的な観測のもとに開始されたものの、数年のうちに批判の的になってしまった。直接の理由は公園の過剰整備であったが、その背景には保全生態学の発展や科学の飛躍的な進展があった。それまで、国立公園局は「趣の保護(preservation of atmosphere)」やその他の組織設立当時の思想に固執し、生態学的、科学的理論を受け入れようとしなかったと言われている。言い換えれば、風景(見かけ)にはそれほどの変化がないものの、生態系などに影響が生じていることやその因果関係が、科学的な調査により明らかになってしまったわけだ。
それまで組織として風景管理やビジターサービスを優先してきた国立公園局では、こうした客観的で科学的な情報に基づく公園管理といった、新しい考え方についていくことができていなかった。ところが、一般国民の目には施設の過剰整備が明らかで、「国立公園局は、本当に公園を守ろうとしているのか?」といった本質的な疑問が呈された。
このような批判を受け、国立公園局はようやく調査プログラムを立ち上げた。その結果とりまとめられた2つの重要な内部文書のひとつが、前出のセコイア・キングスキャニオン国立公園のバックカントリー管理計画であった。
もう一つの報告書は、1962年に発表された、通称「スタグナー報告書(Stagner Report)」である。この報告書は、1932年に発表されたライト氏の「国立公園における動物相」の内容を踏襲した形で、公園管理の原則がとりまとめられている。さらに、1963年には外部委員会による2つの相互補完的な報告書が発表され、上記2つの内部報告書が改めて外部有識者に認められる形となった
【20】。
一方で、1960年代は、環境保全運動が大きな盛り上がりを見せたことを背景に、数々の環境関連法が制定された時代でもある。政府機関である国立公園局にも、その業務に様々な制約が生じることになった。これが組織の変革に拍車をかけた。
1962年、レイチェル・カーソンの有名な著書
『沈黙の春』が出版された。同書は、人間による自然や野生生物に対する深刻な影響を指摘し、大きな反響を巻き起こした。これをきっかけに環境保全運動が一気に盛り上がりを見せた。
その2年後の1964年、ウィルダネス法(Wilderness Act of 1964)が制定された。これに対して国立公園局は、「国立公園は既に保護のために管理されており、ウィルダネス法の適用はその管理方針と重複している」と主張した。国立公園局がこの法律の国立公園への適用に後ろ向きだった背景には、ヨセミテ国立公園のタイオガ道路計画など大規模な道路建設計画などの予定があり、それらの事業実施の妨げが懸念されたという事情があったと言われている。
1967年に制定された
大気浄化法(Clean Air Act)は、公園保護の強化に貢献する一方で、公園管理者側としての規制遵守義務が生じた。翌1968年には、原生及び景観河川法及び国立トレイルシステム法が制定され、国立公園システムはさらに拡充し、複雑になった。
1960年代を通してもっとも重大な影響を与えた法律は、何と言っても
国家環境政策法(National Environmental Policy Act of 1969: NEPA)だ。この法律は米国の環境保護の基本憲章というべきものであり、各政府機関は環境への影響が最小になるような方法で自らの業務を行うことが求められることになった。連邦政府が実施するすべての開発事業について、潜在的な環境影響に関する調査を行った上で計画を策定することなどが求められる。この法律の画期的な点は、計画過程で一般に対し情報を公開し、事業に対するインプットを受けるプロセスを設けることが義務付けられたことである。このパブリックインボルブメントの原則義務化は、環境保全団体の影響力を飛躍的に向上させる結果となった。
これらNEPAをはじめとする一連の環境法規によって外部圧力が高まり、国立公園局の業務の進め方は大きな方向転換を余儀なくされ、事業評価や評価を行うための科学的なモニタリング体制の整備が急ピッチで進められた。その一つの典型例が、ヨセミテ国立公園で行われているオープンハウスをはじめとするパブリックインボルブメントの取り組みといえる。
シエラネバダ山脈に位置するこのヨセミテとセコイア・キングスキャニオンという2つの自然地域を舞台に、保護と利用や開発をめぐって様々な政治的抗争が繰り返されてきた。その抜き差しならない対立を経て、アメリカが世界に誇る「国立公園」という制度が実現した。その制度は完璧なものではないかもしれないが、こうしたさまざまな関係者の努力の歴史に触れるとき、アメリカの生み出した「国立公園」という制度は、国立公園の守る景観と同様にすばらしいものだと実感することができる。